YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson89 相手に何を期待してますか?
            ――信頼の条件(2)


最近、ほぼ日の読者になった方、
こんにちは、「おとなの小論文教室」です。

この教室は、
自分の頭でものを考える力、
想いを人に伝える技術を、
楽しみながら伸ばしちゃおうという場です。

読むだけでOKですが、
せっかくですから、
感じたことを、メールすると、
さらに効果があります。

小論文で、いろんなテーマを、
高校生とおもしろーく考え、
論理的に書くサポートをしてきた私の経験も生かしつつ、
ナビゲーターをつとめさせてもらいます。

先週につづき、
このテーマを追ってみましょう。



海外で生活をして1年以上たつのですが、
外国ではflatmate(アパートの同居人)
というのがかなり一般的です。

全く知らない人と住むので
そこには信頼なんていうものは
発生していないのです。
ですが住むとなった以上信頼しないといけません。

でも僕は何度も失敗しています。
例えば同居人が電気代未払いで
他国に移るなどなのですが・・・
これは国民性なのでしょうか?

そのようなこともあり、
今、他人と住むのに少々恐怖を抱いています。

いったいどうすれば信頼できるようになるのですか?

よく自分が信頼しないと
他人からの信頼は得られないと言われます。

たしかにすべてにおいて書類で解決は可能ですが
それは書類しか信じていないと人にとられるのです。
現に僕は最近よく書類に残そうとしますが
回りからはイマイチ歓迎されないようです。

信頼とはいったいなんなのですか?
それともただの同居においては
信頼なんて必要ないのですか?
一般的に人は家族や親友をもっとも信頼します。
同居する以上家族になってしまいます。
なにかいい解決法はないですか?
      (読者 Yさんからのメール)



「疑問」には、莫大な価値がある。
グッド・クエッションを提供してくれたYさんありがとう。
これを読んで、私は、まず、

そんな想いまでして、なぜ、他人と住むのだろう?

と思った。経験がない私は、
海外経験もflatmateを持った経験もある友人に、
意見を聞いてみた。



<経験者の1人、E.さんの見方>

私のまわりのflatmateを持った何人かの意見も含め、
私はこう思ってるの。

flatmateに「家族的」は無し。

家族のような関係に、
という「甘え」があるから、
日本人同士のflatmateは成功しないって
よく言われるらしい。
私もそういう経験がある。

アパートをシェアするというのは、
家賃や光熱費を少しでも倹約するための
手段であって、その他の何モノでもない。
ましてや絶対に「家族になること」ではない。

だから、ビジネスライクに書類を交わすことは
ちっとも不自然じゃない。
なのに、書類を交わすことを
人を信じてないととられる、と否定しかかっている。

ここに、Yさんの「期待」が見えてこないだろうか?

「信頼」とは何だろう?
私たちは、相手に対して
「私を裏切らないという期待をする」
という意味で、よく、この言葉を使う。

Yさんも同じ意味合いで使っていると思う。
同居する相手に対し、
自分が守ろうとしている事柄を、
相手も同じように守ってくれることを「期待」している。

それが守られないと、傷ついて、
他人を信頼できないと言っている。

もしかすると、
言わなくてもわかる、裏切らない
家族的な信頼を求めているのではないだろうか。

Yさんがこだわっているのは、
「裏切られた」という思いではないだろうか。

費用を払ってもらえなかったのは、
同居人の信頼以前の問題。
犯罪というか、その相手は人として失格。
たまたま質の悪いルームメイトに当たってしまっただけ、
としか言いようがない。

人を信頼するのはとってもいいことだけど、
何回か期待に反することをされただけで、
「人を信頼できない」なんて言うのなら、
最初から信頼するべきじゃない。
すべて書類で契約を交わして、
違反したらペナルティ取って、ってスマートにやればいい。

そうではなくて、
あくまでも人を信頼し続けたいなら、
裏切られたらその相手だけを怨むべきで、
全人類を怨むべきじゃない。

次の同居人も、普通に信頼すればいいんだよー。

そのうち、同居人同士の「信頼」とは何なのか、
分かってくるんじゃないかな。

私はどんなに裏切られても、
「基本的に人を信頼する」派です。
疑惑から始める関係なんて、結局遠回りなんだもん。



Eさんのメールを読んで、
私が単身東京へ出てきたときの
ギャップが何だったか、改めてわかった。

私が育ったのは、とても田舎で、
人情たっぷりの家族的な環境だった。
だから、私は、つきあいが浅い相手でも、
「いきなり家族」みたいな、
あったかな雰囲気をその場につくり、
相手とうちとけるというアプローチが得意だった。

ところが、東京の人には、それが通じない。
東京人のドライさに、
肩すかしを食らい、期待が裏切られるというか、
1年目はとても、淋しかった。

じゃあ、東京人は冷たいのか、
というと、決してそうではない。
人に対し開かれているし、親切だ。

近づき方の、お作法がちがう、
何だったろう、このギャップは?

Eさんのメールで「境界線」だと思った。

田舎の私の実家は、
鍵のかかる個室がない。
ふすまは、いつでも開けるし、
玄関にかぎをかける習慣さえも、
かなり、後になってからだ。

だから、人と人の「境界線」を
あんまり、意識する場面がなかった。
そんなのあっても、さっさととっぱらっちゃって、
腹わって、みんな家族になっちゃいましょう。
なあなあ、やあやあ、という感じ。

これが人によっては、あったかいし、
人によっては、あつくるしいのだろう。

(「東京」にしても「地方」にしても、
 地域や、個人差によってちがいがあり、
 それは私もよくわかります。
 ここで便宜上、おおざっぱに分けて話すことを
 お許しください。)

東京の人は、
それぞれが、自分という、
鍵のかかる個室を持っている感じだ。
「境界線」は、ある、だから、
互いに尊重して、ずかずか踏み込まない。

腹をわって、境界をとっぱらう、のでなく、
相手の立場に立つ、ことが必要だ。
そうして、互いに境界を持ちながら、橋をかけていく。

いま私は、長い都会生活で、
この距離感が、しっくりなじんできた。

人がはじめて出逢った瞬間、距離がある。
信頼であれ、期待であれ、
この距離以上のものを求めても、求められても、
ぎくしゃくと、互いに「疲れる」回路にはまるのだと思う。

他人との同居で、
それなりに苦しんだEさんは、
この人間距離(車間距離ならぬ)の達人だと思った。

Eさんとは以前、脚本塾で知り合った。
塾には、遠方から来ている生徒も多かったが、
私や、他の生徒を、
実に気前よく、部屋にとめてくれた。
1度などは、一部屋に4人もとまったことがある。
私だったら、ほぼ初対面の人たちに、
ここまで、親切にできないし、
できてもストレスをためこんだに違いない。

Eさんは、出会った人を信頼して、
受け入れるキャパシティがデカい。
他人に対し、潔く、優しい。

いったいどういう経験をしてきた人なのだろう、
と思っていたが、
たぶん、「境界線」をよくわきまえていて、
距離以上のものを何ら相手に期待しないから、
きっぱりと人に親切にでき、疲れないのだろう。

上京当時の私の人への信頼は、
自分の「淋しさ」の都合で、
伸びたり、縮んだりするものだった。

Eさんの信頼は、一貫している。
信頼から入るから、
当然、だまされたこともあるのだが、
彼女は、基本的に、人を信頼するスタンスを変えない。

信頼って、
相手が、どうすることを信じているのだろう?
あるいは、自分にどうしてくれることを
期待しているのだろう?

Yさんは、なぜ、他人と住もうとするのだろうか?

まず、その理由をクリアにするといいと思う。
経費節約のためか?
防犯上都合がよいからか?
異国の地で、なにか家族的なつながりを求めてか?

家族的なつながりを求めたって、
私はいいと思う。
自分がそうだと自覚したら、
では、それを、同居人に求めるのはふさわしいかどうか?
だれに求めるといいのか?
どんな方法がいいのか?
考えて、適切な相手に、
適切な方法で求めたらいいんだと思う。

そして、具体的に、相手がどうしてくれたら、
同居人としてOKなのか?
自分の納得ラインを
書き出してみるといいのではないだろうか?

例えば、
「費用を滞納したり、
 未払いで逃げたりしないと信頼できる人」
というように。

この納得ラインは、人によって
「自分の金品を泥棒したりしない」と思えればいい、
と低めの設定もあれば、
台所から洗面所の使い方まで、
こまごまと自分の期待に添わなければ
信頼ならん、という人まで、さまざまだろう。
ちなみにEさんが同居人に求める信頼の
納得ラインは、これだけだそうだ。

「お互いがお互いのプライバシーを
 侵害しないという信頼」

信頼とは何か、この問いはレベルが高いから、
丸ごとぶつけると、自分も相手も息苦しくなる。
私たちが知らなければならないのは、
信頼という抽象語の前に、
現実の中で、人により、場面により、
おどろくほど多様な、
信頼関係の実態ではないだろうか。

例えば、編集者と作家の信頼関係だって、
信じてた作家に、お尻をさわられた。
もう作家として信頼できない、仕事はしていけない、
という編集者もいるし。

あの作家は、いつも飲んだくれてて、
約束の時間に電話しても、家にはいないわ、
酔って暴言ははくわ、
あげく何日も連絡がつかないわ、
めちゃくちゃだけど、
締め切りの日になったら、
必ずちゃんとした原稿がくる。
ただ1点、そこだけで信頼関係はある。
と判断する編集者もいる。

あなたの納得ラインは、どこだろう?

最後に、このメールを読んでほしい。
では、また来週水曜日。


自分と関わる人々の最も重要な部分が何なのか、
それはみんな言葉にならないとしても
感覚としてはあるはずです。

人間味のない話ですが、
ある相手では機能さえ満たしていれば
信頼できるかもしれません。
また、ある相手ではかなり統合的な
"オーラ"を要求するかもしれません。

好かれたいとか、嫌われたくないとかは
もう声に出す必要ないんじゃないでしょうか。
十分、条件反射的にそのように体は動きますし。
誰だってそうですし。

そんなことよりもっと、自分が何をしたいのか、
声高に叫ぶべきです。

Yasunari Yaguchi







『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円

内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
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2002-03-27-WED

YAMADA
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