YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

ガンジーさんにあずけた鍵

ガンジーさんのコラムの中で、
いちばん胸に残っている言葉は、
2001.4.13.幸せはどこにだってある、の中の
「鍵はガンジーにあずけろ!」
だった。

そのころの私を、
ひと言で形容するとしたら、
「絶望」という言葉の意味を、やっと、
知りはじめたころだった。

人が、
「そんなの絶望のうちに入らない」
というかどうかは関係ない。

自分という人間のスケールに応じた闇を、
深く濃く味わっておくことは、

あとから考えれば、
とてもいいことだと思う。

真っ暗闇で、
視覚の限界のような細い光が見えるように、
かすかな希望にも、
反応する身体になる。
日なたに、同じ光があっても、
ふだん、わたしたちは気づくことができない。

心臓に毛が生える歳になっても、
まだ赤子のように社会の波に身をさらし、
深い絶望を知る、
とは、贅沢にすら思える。

絶望の位置って、
希望からいちばん遠い、手の届かないところ、
とばかり思っていた。
でも、どうもそうではないようだ。
思うより、もっとずっと希望に近いポジションなのだ。

うまく言えないけど、
恋を知ってこそ、深い悲しみを知る、
恋しなければ、そんな悲しみもない、
ようなもので、

希望の案外近くだから、
よけい闇は、深く濃く、コントラストを見せる。
絶望のないところに、希望もない、
ただし、絶望と希望との2メートルくらいの距離の間には、
底のない溝がある。

ポンと跳んじゃったあとで、
なんだ、こんくらいの距離だったのか、
と思うかもしれないし、
足がすくんで、その2メートルが越えられなくて、
溝につっこんじゃうこともある。

私の場合、
ものを書きはじめたことは、
「私たちは」でなく、
1人称「私」で、
世の中に、自分を発現し、関わっていくことの
はじまりで、

そのときから、
この2メートルの距離を、よく意識するようになった。

プロからしたら、
また、プロでなくとも、
ずっと書き続けている人にとっては、
まだその次元か、というところだと思うが、
自分なりにものを書いていって、

絶望の壁を破ったら何がある?
もひとつ先の絶望がある。

というようなことを、
イッパシに思っていたころ、だった。

書くことを通じて、
絶望と希望の2メートルジャンプに出逢うチャンスは
幾重にもある。

自分の思うものが書けないとき。
自分の思うものを書いて、自分の正体を知るとき。
自分の正体をさらして人の反応に出会うとき。

そして、この3段階ジャンプをなんとかクリアしたとしても、

この世は、必ずしも実力には関係ない、
力関係でものが動くことがあり、
その力関係において、
今の自分は、あまりにも非力なのだと知るとき、
また、深い溝に出くわす。

冒頭のコラムを読んだのは、
そういう当たり前の現実に、
正面から立ち向かっていたときで、
素敵なことも多かったが、
玉砕したときもまっすぐ、底なしだった。

ガンジーさんのコラムは、こんな言葉ではじまる。

「今の病気人は幸せだね。」

そこには、病床にある人にとって、
テレビが、
どんなに希望の光か、ということが書いてあった。
そのテレビの魅力とは、

「ムカシのようにラジオだけと違って映像だ。
 映画館だ。
 競技場だ。 
 寝ながら観ることが出来る、
 スポーツの観戦が出来る。」

読んでいる私にも、
なんとも不思議な光が差す。
こどものころ、わくわくしながら
テレビのスイッチをひねったときのことが
よみがえる。さらに、

「TVが枕もとになかったら
死んじゃう患者がもっと増えてるだろう。

どれほど多くの患者たちが、
一時的にせよ病を忘れ精神的に助けられていることか。 

闘病とは病を忘れる事だと思う。」 

簡単に、人の気持ちが「わかる」とは言えない。
これを書いたガンジーさんには、
ガンジーさんにしかわかりえない
状況や気持ちがある。

でも、その言葉は、
私の心の闇にまっすぐとどいた。

闇にある人を照らすのは、
百ワットのまばゆい光ではなく、
日なたで、人が見失うような、かすかな光と、
それに気づくセンサーではないかと思う。

つづく、ガンジーさんの言葉は、痛かった。

「そして病気人の闘志とは
口外したとたんにそのチカラを失う。 

口に出して「見てろ!俺はやるぞ!」なんていうヤツは
他人のチカラを期待してるんだと思う。 

固い決意を軽はずみにしゃべっちゃう人は、
時間を守れない人とおなじだ。
そういう人は時計の針を進ませたがる。 
「必ず治してみせるぞ!」と言ったって、
拍手は受けるだろうが、それだけの事」

その日、私は、クライアントの暴威に悩んでいた。
「いくらなんでも失礼ではないか!」
と怒ってやろうとした。

でも、それができない自分の力関係はよくわかっていた。
ならば……、大人として提案に変えようとした。

しかし、提案でやんわり言っても
相手はいい気がしないこともわかっていた。
その仕事はどうしても守りたかった。

そこで私は、クライアントに、
なにか「決意表明」みたいなメールを書こう
と思っていたのだ。
「いろいろ、つらいことがあるけど
がんばります!」みたいな。
何か書かずにはおれないほど、
私は、ふさがれていた。

でも、それこそがクライアントへの甘えであり、
自立しているようで、
結局はクライアントの力に期待していたのだと、
ガンジーさんのコラムではっきりわかった。

「だまって、やれ!」

つまり、今の自分にできるのは、
口をつぐんで、ただ書くことだけだった。
どんなに一生懸命書いたからって、
いいものになるとは限らず、
自己ベストが出せたからって、
クライアントに評価されるかどうかは、
また別問題だ。

「それが、どうした?」

自分に残されている選択肢は一つだけ。
クライアントの要求以上のものを黙って仕上げること、
これだけが100であり、
残りのすべての行為は0なのだ。

そんなこと、わかっているけど、つらいんだよ。
と思う私に、
ガンジーさんの心のこもった、この言葉があった。

「鍵はガンジーにあずけろ!
成功の暁にモおめでとう!゛と返してあげる。」

固い意志というものは、
深く心に秘めて鍵をかけ、
決して人に言ってはいけない。
その鍵は、俺があずかる。
というものだった。

その日、私は、ガンジーさんにひとつ鍵をあずけた。

そのときの鍵は、まだ、ガンジーさんが持ったままだ。
おめでとうと返してくれる日を楽しみにしている。

私はこれからも、
2メートルジャンプの淵に落ちそうになったら、
ガンジーさんに鍵をあずけようと思う。




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山田ズーニー著 PHP新書660円

内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
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●ラジオ出演予定
 12月29日 朝9:10〜
 山陽放送ラジオ(RSK1494)

2001-12-26-WED

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