YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson60 詫び状テンプレート
  --結果を出す!文章の書き方 (11)謝罪文の構成



「リーダーの仕事は、決めるとこ、決めて、
あやまるとこ、あやまる。」

企業にいたころ、異動する同僚が残していった言葉だ。
何かを率先してやろうと思ったら、
まず必要なのは、
決断力と、あやまる才能、
ということだろうか。

職場での立場が古くなり、
責任の範囲が増えていくと、
やはり、お詫びをすることが多くなる。

私も、いったい何回、
お詫びの文章を書いたか、知れない。

そのたびに、潔く、かっこよくありたい自分と、
根性の悪い自分が、ぎったんばったんした。

はずかしい話だが、
最初は、後輩がやった間違いや、
スタッフがやった間違いを、
自分のこととして詫びる、
ということにさえ、
素直に、体が反応しなかった。
それから、
相手の方がひどいと思えるときもある。

その先生は、名の知られた人だった。

後輩が、その先生に
取材に行きたいと企画し、決めた。
だから、意志を尊重して、
後輩とプロダクションの人が、取材に行った。

ところが、その先生は、待ち合わせ場所に現れず、
別のホテルにいるから、そこまで来い、と呼びつけた。
その時、先生は、ホテル名を間違って言った。

後輩たちは、その名のホテルがなく、
探して探して……
似た名前をたどっていって、
やっとホテルに到着した。

すると、先生は、「到着が遅い」ということで、
えんえん後輩たちをなじった。
ひとしきり、罵倒をあびせたあと。

こんどは、名刺の肩書きを見て
「なぜ、編集長が自ら取材にこないのだ」
と怒り出した。
下っ端と、外部の人間が来た、
自分はあしらわれたという理屈らしい。
そこで、会っても、見てもいない、
私のことを怒り散らした。
存在、媒体、編集姿勢、
何から何まで全部否定したあげく、
政界の集まりで、私をこきおろす、
社長に、私を辞めさせるよう、圧力をかける。
と言い出した。

2時間にわたって、えんえん、
後輩たちを痛めつけたあげく、
約束の取材には一切応じず。
先生は後輩たちを帰した。

上司とも、相談の上、
結局、私が、先方にお詫びの手紙を書く、
という対応策に決まった。

なんで、こんなやつに、頭をさげなきゃいけないのか?
身体がわなわな震えた。

わなわなしながら……
私は、以前、復讐を考えたことがある。
そう、私は復讐だって、理詰めで考える。
こわいぞー。

まず、相手に同じくらいの
精神的なダメージを与えるとする。
でも、そんなことをすれば、
相手は、私のことを、思ったとおりの最低の人間だった、
と自分の判断に自信を持つだろう。
一方、私は、人にダメージを与えたという内圧と、
傷つけられた相手の恨みという外圧で、
二重の新たなリスクを負うことになる。

大切なもののために、リスクを負うのはいとわないが、
きらいなもののためにリスクを追うなんて、ごめんだ。

究極の復讐とは何だろう?

相手に私を、尊敬させる。
私という人間を好きになってもらう。
これ以上の復讐はないのでは、と私は思う。

相手にしてみたら、さんざんこきおろし、
最低の奴だと思っていた人間に、
何か尊敬心のようなものが芽生えるのだ。
そのとき相手は、自分の判断を疑わざるをえなくなる。
そのとき相手には、何か、後悔みたいなものがよぎる。

私が、書いた詫び状を見て、
「なんだ、コイツ、
 けっこうわかってるじゃないか……」と
相手が0、0コンマ1ミリでも
思ったら、
その時は、私の勝ちだ。

未熟な私は、そんなふうに、なんとか、
自分を納得させて、筆を執った。
そのときの手紙の執筆方針は、

徹底的に相手の側からものを見る

ことだったように思う。
相手の理屈、相手の価値観で見たら、
この一件は、こう映るだろう。
さぞ、立腹だろう。
そういう不快感を与えたのは、私だ。
その面には未熟なため、配慮が及ばなかった。
という論理で、手紙を書いた。
こちらの都合・理屈は、結局、全部とった。
このケースには、それがしっくりいくような気がした。

徹底的に読者の側からものを見るという
うちがいつも大事にしてきた編集姿勢を
この手紙で体現してやろう、とも思った。
相手が、全面否定した、うちの編集姿勢を。

気難しい先方が、それ以上何も言ってこなかったから
なんとか、結果が出せたらしい。

そんなお詫びや、
たくさん、たくさん、詫び状を書いた。
あるときは、「でも相手も、ここは悪いよな」と思い。
丁寧なお詫びの中に、ほんのちょっとだけ、
遠まわしにそのことを書いたら、
もとの3倍くらい怒られた。

理屈で勝っても、だめなのだな、

と思った。
詫び状を書くたびに、気づかされるのは、

どんな状況でも必ず何か、自分に非がある。
原因のない失敗はない。

ということだ。
その「核心」みたいなところに、
自分で気づくまで、
不思議に、文章は完成しない。
書いてて、何か腑に落ちない。
何かしっくりいかない感じが残るのだ。

そこで、書いては消し、
言葉を組み替え、
言葉を探す。

そのとき、私の中では、
罪を自分ですりかえては、自分で引き戻し、
責任から、じたばたと逃げては、引き戻し、
さながら、カイロ・プラクティックのように。
自分の思考回路のゆがみを
自分で矯正する作業が行われている。

やっと、ストンと腑に落ちる文章が書けた時に、
ああ、そうか! 私のここが悪かったんだ。

ことの核心がわかる。

それは、前に向かう、
すごくいいエネルギーが満ちてくる瞬間だ。

そういう詫び状を何度も書いているうちに、
自然に、私の詫び状は、ある流れをもつようになった。

その流れを、お詫びの文章テンプレート、
たたき台として紹介しておこう。

これは、さんざん、じたばたしたり
お叱りを受けたり、伝わって絆ができたりしながら、
社会と仕事に矯正してもらって、
やっとまっすぐに伸びた、私の、
お詫びの背骨だ。

<お詫び状テンプレート:たたき案>

まず、謝る
仕事では、「申しわけありません」を使うことが多かった。
深々と頭をさげるようなつもりで、まず、しっかり謝る。
    ↓
相手側から見るステージ
このステージでは、徹底的に相手の立場に立つ。
相手の目で、相手の都合で、相手の順番で、
この一件を見るとどうなるか? 
相手はどんな迷惑を受け、どんな気持ちになったか、
それを考えて、できるだけ具体的に書く。
*想像力をふりしぼる。
    ↓
罪を積極的に認める
相手にそういうダメージを与えたのは、
まぎれもなく自分であることを積極的に認める。
    ↓
原因を究明するステージ
この一件はどうして起きたのか、何が悪かったのか?
自分の内面、外的環境から、広く、徹底的に原因を究明する。
ただし、最終的に文書にする時、
「自分自身のどんな怠慢・力不足から生じたか?」
という観点から語れるものだけを残し、あとを全部捨てるといい。
*自分の都合・言い分けをだらだらと書かない。
*防衛反応チェック。原因をすりかえたり、美化してないか?
    ↓
将来に向けた修正
二度と、こういうことを起こさないために、何をどう変えるか?
できるだけ、精神論ではなく、何をどう変えるか、具体的に書く。
* 本当に再発防止に効果があるか?
* 実行に責任が持てるか?
    ↓
どう償うか?
相手がこうむった不利益を、
どういうふうにリカバーするかを書く。
*短期間にすぐ代償できるものに留まらす、広く長い目で見て、
この仕事をもっとよくしていこう、
相手と自分の関係をもっとよくしていこう、
相手にもっといい価値を提供しよう、
という観点から発想し、自分に本当にできることを書く。
*クリエイティブを働かせる。


ついでの用事があったりしても、
お詫び文には、他の要件をいっさい書いてはいけない。
時候の挨拶もなし。

おわび文だから、へらへらしてはいけないけれど、
必要以上に、相手が不快になるほど、
暗くならないように気をつけたい。相手に負担になるから。
相手に、前に向かったさわやかな読後感を残せるといい。

お詫び文の「一人称」は、
私たち、わたしども、弊社などを一切使わず、
一貫して、「私」を使用するといい。
私は、自然にそうなった。
「私がやったこと」だから。

逆に何かいいことがあったとき、
成果がでたときの報告は、
「私たち」を使うといい。
みんなの力があってできたことだから。
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あなたはどんな詫び状をかいていますか?
自分で納得がいく、人に伝わるものが書けたとき、
その背景に、
あなた独自のきれいな思考の道筋があったと思います。
できたら、そのときの思考回路を、
このようなテンプレートにして
残しておいてはどうでしょうか?
混乱したときの道しるべになると思います。

2001-09-05-WED

YAMADA
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