YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson53 すれ違う心 ……すれ違ってるのは本当に心か?
        結果を出す!文章の書き方(6) 戦術


文章を書く上でも、
正直は、最も有効な戦略だと、
私は思う。

例えば、
ある人が、嘘を書いて就職論文に受かろうとする。

教育系の会社なのに、
教育にも、子どもにも関心が薄い。
それではまずかろうと、一夜づけで本など読んで、
「私は子どもが大好きで、教育への関心が高く……」
と書くとする。

まず、嘘を書こうとすれば、言い切りが弱くなり、
文章全体の歯切れが悪くなる。

また、採用担当は一度に多くの人の文章を読む。
応募者の中に、
本当に、子どもと教育について、
自分なりの勉強や実体験をつんできた人がいたら、
その人の本物の言葉に勝てない。

また、読み手は、教育業界の人、
いわばプロだ。
教育関連の情報が集まる環境にいるし、
仕事を通じて、何らかの葛藤や考えを持っているだろう。
そういう相手に、
一夜づけの知識が説得力を持つだろうか?

こう考えていくと、嘘はそんなに有効でもない。

自分の持っているものを生かした方が強いのだ。
例えば、自分が受けてきた教育を振り返り、
そこから、独自の問題意識を展開すれば、
りっぱな教育論になる可能性だってある。

自分の考えを書いて、
結果が出ないなら、あきらめもつくし、
そこから得るものも大きいだろう。

お店で買い物をするときだってそうだ。
あなたが洋服を買うとして、
どんな店員さんのいる店で買いたいだろうか?

一方は、押しの強い店員。
その商品の長所をたたみかける。
都合の悪いことは隠しておく。
あなたが何を着ても、
何をあてても「お似合いです!!」とほめちぎる。
こんな店員さんに、
一度は負けて買わされても、
また行こうと思うだろうか?

一方は、いい事も、
一見営業に不利なことでも、
正直に情報を提供して、選ばせてくれる店員さん。
試着をして明らかに似合わないときは
「それでは淋しい印象になりますね、
こっちはどうでしょう?」
と、率直な意見を聞かせてくれる。

長い目で見て、
安心して足を運べるのはどちらだろうか?

前者は、目先の交渉術に長けていても、
うさんくさい人物と思われ、メディア力をさげた。

後者は、理屈では不利にたっても、
長い目で見て、自分の感性で、
お客さんを引きつけるという
その人ならではの結果が出せたのだ。

自分にも、他人にも、
そういう「本当」をかぎ分ける力があると思う。
時に、その目がくもるのは、
欲とか、淋しさにとらわれるからだろう。

こうして、私が、コラムを書いていても、
ほんとうのことはちゃんと伝わる。
今さらもう珍しくもないことでも、
自分の身体でつかんだ切実なことは、
ちゃんと伝わる。
それは、恐いほどだ。

こう考えてくると、

「なんだ、そっか!
自分が感じたこと、考えたことを、
まず正直に表現すればいいのだ!」

とラクになる。
そして、勇気がわいてくる。

だが、つい、調子にのって、
テクニックなんていらないぞー!
感じたままをぶつけようー!
正直がいちばんー!
と、突き進むと、
案の定、壁にぶち当たって痛い目にあう。

なぜか……。

自分の正直な姿を刻みつけるところは、
自分の中ではないからだ。

自分の中ではない。
ましてや、白い紙の上でも、パソコン上でもない。
「相手の中」だからだ。

ここにズドーン! と壁が立ちはだかってくる。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
自分が考えることは、
文字や言葉にすることで、
最初の思考からは少し離れたものになります。
本来感じるべきことを、
そういった使い勝手に少し難のある道具を使いながら
探りあうのが、
人間同志のコミュニケーションなのでしょう。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

これは、法務教官をしているAさんの言葉だ。
Aさんは、罪を犯した少年に、文章を書かせ、
彼らが反省したり、立ち直るのをサポートしている。
その、ぬきさしならない現場の、
経験から出てきた言葉が、上の言葉だ。
私は、おりにふれて、この言葉を思い出している。

正直という戦略でいくということは、
自分の想い・考えがたよりということだ。
それを表現して、
それでも孤立せず、
人や社会とリンクして生こうとすることだ。

その、孤独な戦いに踏み出す時、
私たちが、自分を表し、人とつながる主な手段として
与えられているのが、
この、言葉という不自由な道具なのだ。

自他に正直であるために、
どうすればいいのか?
この不自由な道具を扱って。

そこに、戦術が必要になってくる。

つまり、言葉や文章というものへの
理解を深め、テクニックを磨き、
コミュニケーションの術(すべ)を持つことだ。

言葉が不自由なものである以上、
あなたと相手が向き合った時、
そこに巨大な誤解ゾーンが横たわっていると言える。
互いによく知らないとき誤解ゾーンは大きく、
だんだん気心が知れてくると、
誤解ゾーンは縮まってくるものの、
依然として、それはなくならない。
入り組んだ話の時は
とんでもない深みへと誤解ゾーンは広がっていく。

離婚会見などで、
「性格の不一致」とか、「相性が悪い」とかいう言葉を聞く。
たしかに、こう言ってしまっては、
もう結論が出てしまって、
別れるしかないだろう。

自分の正直な考えを出したのに、
相手に理解されない、かみ合わないとき、
あなたはどうしていますか?

相手が間違っていると思う?
自分を責める?
相性が悪いと思う?
打たれ強くなる?

いっそくとびにそこへ行く前に、
なぜ、かみあっていかないのか?
何が障害になっているのか?
今つかっている不自由な道具を点検してみては
どうだろうか?

自分の正直な想いは、
そのまま言葉にすると、
相手の中にゆがんだ像を結ぶことがある。

先日も、もう6年来の大変信頼している友人と、
こんな対立があった。

友人は「自立なんかしなくてもいい」と言い。
私は「自立は必要だ」と言った。
友人はとても優しい人なので口論にはならないものの、
でも、静かに確信を持って、
わたしもひかえめに、だが、小論文で鍛えた理屈で応戦し、
対立の溝は深まっていく気がした。

これは、根本的な人生観とか、仕事観の違いなのだろうか?

このまま険悪になってはいけないと引っ込めようと思ったが、
でも、自分の考えを前に出すことが誠実さだと思い直し、
どんどん空気圧が高まる中、やりとりを続けた。
そのうちに、
「あれ? 私の言ってることも、相手の言ってることも
実はそんなに違わないのでは?」
と思い始めた。
では、
なんだろう、このモヤモヤと、わかりあえない空気の正体は?
と考えたら、文章読解の、とても簡単なキソを思い出した。

来週は、ここから、
誤解されない文章を書く3箇条をお話してみたい。
(つづく)

2001-07-18-WED

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