YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson17 私の世界観をつくる・あらわす

あなたが、好きな、
心からやりたいことは何ですか?

ある人は、例えば「編集者」というふうに答えます。
その人は「編集する」行為そのものが好きなのですか?
それとも編集のワザを使って何かをしたいのですか?
何をしたいのですか?
そのしたいことはその職業でないとできないことですか?
その職業に就けないとしたら、イコール挫折ですか?
就いた時、思っていたのと違っていたらどうしますか?

今日は、あなたと一緒に、
好きなこと、やりたいことを、
自分なりにどうつかまえていくか?
を考えてみましょう。

読者の21歳の学生Aさんから、
こんなメールが届きました。まず、読んでください。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
理想を形にすること

ぼくの好きなことを申し上げますと、
それは「理想を形にすること」です。

こんなありふれた言葉すら自分の一部として
感じるようになるには時間がかかりました。
「なにやりたいの?」
「これからどうするの?」
という声に絶えず取り囲まれながら、
引きこもりと呼ばれるような生活を二年続けた後で
つかんだ思いでした。

言葉を見つけただけで、
うれしくて、踊り出したい気分でしたので、
「やりたいことを妊娠する」というのは
すごくうなずけることでした。
今は、「じゃ、どうするの?」
という声と向き合って日々を刻んでいます。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

2年も考え抜いたのだ、Aさんは。
そして借り物でない自分の言葉で、
自分の好きなものをつかんだ。
言葉を発見するのは、
これくらい孤独で、時間のかかるものかもしれない。
それだけに「理想を形にする」という言葉は、
Aさんのオリジナルであり、
私たちが、うわっつらだけまねしても
似ても似つかない結果になりそうだ。

でも、Aさんの「やりたいこと」のつかまえ方は、
迷路にはまった時、突破口になるかもしれない

私は22歳の時に、編集者になろうと決めた。
同級生より3年半遅れて、夢は実現した。
しかし「編集者」は、やりたいことのワクにすぎなかった。

外部の人とチームでものをつくるとき、
意見が分かれるのは当たり前、
ケンカになることもよくあった。
その矛先は、もちろん最後には私に集中する。
例えば環境問題について特集をするなら、
「最終的には読者に何を伝えたいのか?」
つまり、
「結局ここで、あなたは、何をやりたいのか?」
を毎回、毎回つきつけられた。

私は「環境について、さまざまな角度から、
17歳に考えてほしい」なんて言ったが、
そんなものは、
対立するプロとプロの意見のどちらかを選んだり、
そのどちらの立場でもない、編集部の考えを打ち出す時、
何の役にもたたなかった。それもワクだ。

つまりは、こういうことが求められていたのだと思う。

「このメディアの編集者は、
環境というテーマをめぐって、
時代と社会と人をこのように見ています。
その中で、こういう点に問題を感じ、
近い将来こういう方向によくなっていくといい。
そのためにこういう点について、
読者に感じ、考え、自由な意見を育ててほしい」

自分なりの理想を、チームに伝える。
伝えたところで、否定されるかもしれないし、
間違いを指摘されるかもしれない。
でも、打ち出さないと、
間違いにさえ気づけない。
編集者と、外部のチームは対等になれない。
外部のチームは行き先のみえない船にのるようなものだ。
なんだか正体不明のところで、
仕事がいい、とか、悪いとか言われることになる。

自分なりの理想を打ち出し、
共感してもらい、多くの人の力で形になり、
読者に届いたら、とても幸せだろう。

ところが、私は最初、
チームに理想が伝えられなかった。
せっかく夢だった編集者になり、
それぞれの分野のプロが一緒にやろうという時に。
カスカスの自分に気づかなければならなかった。

自分のばけの皮が、はがれていく。
知識不足もさることながら、
環境問題に対する生活実感がない、
編集会議前に、お茶づけのように新書を読みあさっても、
そんな借り物の知識ではごまかしようがなく、
毎回「決め、決め!」とメンバーにつめよられた。
自分なりのイメージなかったわけではない
うまく伝えることも、説得力もなかったが、
何かはあった。でも形にできない。
チームに通じない、理解されないとき
みぞおちのあたりが、ぐるぐるといつまでも痛かった。
でも、いちばん痛かったのは、
環境について、人と社会のビジョンが描けない自分だった。

それから何年かして、
「志」という言葉が自分の中で育っていった。
今はどんなに稚拙でも、
その仕事への志をまず、相手に打ち出す。
すると意見が違う相手とも、同じ土俵で、
ぶつかり合い、協力できるようになってくる。

自分の仕事に大切なのは志で、
編集というのは、志を実現するために
必要な術(すべ)なのではないかと今は思っている。

私の編集の師匠Yさんは、志に忠実に生きている、
身近なとてもよいお手本だ。
今は作家を目指している彼女は、
その動機を次のように語ってくれた。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
やりたいことっていうのは、自分の内側の、
自分が求める世界観を形にしたいっていう思いでしかない。

外側から、社会が与えてくれた一つの職業のワクの中で、
例えば、俳優になってみたところで、
音楽家になってみたところで、
内なるものが満たされるかっていうと、決してそうではない。
例えば、中田がイタリアに行って、
自分の思うサッカーをしたいって言うでしょ。
それはやっぱり、思うような世界観があるんだと思うの、
サッカーの中においてね。
トッププレイヤーになろうが有名になろうが、
それが満たされない限りには、彼は自分の中で
「やった!」っていう想いにはならないんだろうね。
ただサッカー選手になるのじゃなくて、
思うようなサッカーがしたいってことにあるわけだよね。

私だって小説書いてて、
人が例えば面白いって言ってくれても、
自分が思う世界に到達してなかったら、
全然、満足感なんて得られないわけよ。
形上、ひとつの起承転結のある話を書いたとしてもね。
そこに私が思いいたすものが、
世界として立ち現れてこないっていうときは、
クズ同然だと思うからね。

それと同じようなもので、編集者になろうが、
お医者さんになろうが、それは与えられた記号なのね、
記号の中に盛り込まれている自分の世界が、
ある意味で見えてこない限りは、私は、大それて
「好きなことやってます」なんて言えないんじゃないか、
そういう気がしてしかたがないの。

それはもう、自分の中の「絶対価値」みたいなものを
いかに見つけていくか、みたいなことになってくると思う。
それは社会と照らして、自分が赤にそまっているとか
黄色にそまっているとかいうような、
何か社会を標準にして判断するようなものではなくて、
自分のなかでこれでよしとする
絶対的な価値観のようなものを形成していく
プロセスに近いと思うよ。

だけども、絶対的な価値観なんていうものは、
常に、常に、常に、揺るぎがあるもので、
そんなものよくわかんないのよ。
だから私は、揺らぎのなかでその時々の、
少なくとも自分の、その場持ってる
知恵と誠意をつくした限りの世界を、
そのつど、そのつど、出していくしかない。
それで100%でなくてもある程度の思いを満たし、
ああこれでどこまでその世界に近づけただろうって
懐疑的になったり自己満足に陥りながら、
自己確認していくしかないっていう、
その繰り返しだから。
だから、何かひとつのことをクリアして、
それで、好きなことに到達したなんてことは思えないしね。

例えば、みんなライターって仕事に、
やりたくて入ってくるけど、だけど、
どうもちがうはずだった、みたいに思うのは、
やっぱりライターという場を借りてやってる内容と、
自分の思う世界との食い違いがあるんだと思うの。
じゃあ、何求めるかっていったら、自分の求める世界を、
それはライターという形じゃないにしても、
何かクリエイトしていく、
そういう意志を示すことでしょ。

だから自分の中にある理想、
たとえば、これが美しいと思うことに
形をあたえていく作業っていうのは、芸術家なら、
芸術家なりの仕事があると思うけれども、
それはなにも、外側の世界をペインティングすれば、
理想が実現するわけじゃなくて。

自分の中に世界があって、
そこに形を与えていくって思いが、
ある程度達成できた時に、満足感が得られるっていうのは、
ビジネスの場でもそうだと思うよ。
だからなんか、商品になっただけじゃ
満足できなくてっていうようなところは
やっぱりあると思うしね。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

ズーニ−:
読者の中に、2人くらい、
自分の会社の商品に共感できない人がいました。
一人は入社してその日に
「そんなもんつくってどうすんだ、私なら買わない」
と思い、もう一人は、自分が作った商品が
評価されたにもかかわらず、
ぜんぜん自分がつくりたいものではなかったと言っています。
Yさんは、こんな時どうしたらいいと思いますか?


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
それは、やっぱり他者と向き合うってことだと思うの。
自分の内面の理想じゃない世界があるってこと。
しかも、それが圧倒的だということ。それを知ること。

私だって、自分がいいと思っている世界を提示したって、
社会が認めてくれないっていう
現実があったりするわけでしょ。
それは、現実なのよ。
だけど他者と向き合うってことで、いかに、
私が思い描く世界と外側に広がっている世界を自分なりに、
あきらめないでつないでいくかってことにしか、
現世で生きてる意味はない。
おもしろさもない。
それがめんどうなのであれば、
あの世に行ってつくればいいわけでね。。
そうじゃなかったら、
自分でこれが絶対いいんだと信じてやる。
それもひとつの現世に対するアクセスだと思う。

内にこもる好きなことはつまんない。
内にこもるのは、それ以上でもそれ以下でもない。
玩具で一人遊びを続けていくようなものだから。
圧倒的で不可解で憎たらしくて
愛すべき他者(外側の世界)にコミットすることで、
はじめて自分の世界観は育てられて行くと思うし、
他者と交わる行為のなかでしか自分の世界も
結局のところ立ちあがっていかないんじゃないか、
とそんな気がするのね。ちょっと言葉足らずだけど。
だから、内に内にとじこもるんだったら、人に
「好きなことがわかんない」って聞くなって言いたい。
人にもし、好きなことがわからなくてって
悩みを相談するんであればそれはその段階で、
ある程度、外に出て自分が探してくる働きかけなり、
努力をしないかぎり、
好きなことを探してるなんて言うなって私は思う。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

Yさんの話を聞きながら、私は現時点で、
自分が内にもっている、実現したい世界について考えた。
Aさんが「理想」、Yさんが「世界観」、
私が「志」というのがぴったりする。それについて。

私は、人が本来持っている力を生かし、
伸ばすサポートがしたい。
そして、そうなれるような環境、というか、
人と人の関係性をクリエイトしたいようだ。
広義の教育? イメージはある。しかし、まだ、弱い。

あなたはどんな世界観をつくり、形にしたいですか?

私がやりたい方面に向け、
世の中は、今、5年後、あるいは、30年後、
どんな状況だろうか? 
自分が関わっていくことで、
それをどんな風にしていきたいのだろう?
そういうビジョンを発信と勉強を繰り返しながら、
育てていこうと思った。

前回最後に示したの3つの問いの一つ目を考えてみました。
「絶対価値」について、
次回もう少し考えてみたいと思います。
「他者」「具体性のある生活を立ち上げる」
前回からの積み残し課題もさらに追います。
また、人は本当に好きなことで生きていかれるのか、
について、具体的な人物が浮かんだので、
その人の紹介も少し先で考えています。

(つづく)

2000-09-20-WED

YAMADA
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