一生を、木と過ごす。
宮大工・小川三夫さんの「人論・仕事論」。
「これでも教育の話」より。

第6回 イヤイヤだと、できあがらない



木のいのち木のこころ 地
小川三夫
新潮OH!文庫
文庫: 215 p
出版社: 新潮社
ISBN: 4102900934

小川 自分が法隆寺を見て思うのは、例えば、
「宮大工の技術というのは韓国の方から
 4人の大工さんが来て、それがはじまりだ」
と言われたりするんですけど、
「それだけじゃない」ということです。

確かに、瓦をつくる技術とか何かは
大陸から学んだものがあったですけれども、
法隆寺なんかを見ると、向こうから来た技術を
そのままうのみにしてつくっているわけではない。

中国あたりの建物を見ると、
雨が少ないせいか、軒がものすごく短い。
軒がちょっと出ている塔なんかがありますよね。

でも、日本の建物は、
やっぱりものすごく屋根が出てるでしょ。
雨が多いから、湿気のために基壇を高くして、
そんで、その上に軒を深い建物に建てています。
そういうのは、大陸にはないんです。

ですからきっと、日本には、
気候風土に合った建物を建てられる人、
しかも木工の技術にたけた人がいたわけです。
それと向こうの技術を学んだんだけども、
そのときに向こうの技術をそのまま
うのみにするのでなくて、ちゃんとそこで消化して
日本の建物につくりかえているんですよね。

ですから、自分は、大陸の技術を、
「つくりかえている」んだと思うんですよ。
そのまま輸入したわけじゃなくて。
でなかったら、あんなに一気にできませんからね。
ですから、日本人は猿まねが
どうのこうのなんていうけど、そんなことないです。
糸井 猿まねというよりは、
「技術を育てた」ということですね。
小川 そうですわ。向こうの技術を学んだ上で、
日本の独特のものをつくったということです。
だからすごいんです。
糸井 さっき、小川さんがおっしゃっていた、
「できると思う」という心が最初にあったから
建物ができたんだという話って、きっと
当たり前のことを言っているのでしょうが、
法隆寺を見て驚かされた源が、
その言葉で、急にわかったような気がしました。

ピラミッドは石の建築ですけれども、
ぼくはあれの前に立った時に
ものすごいショックを受けたんです。
それまで、ピラミッドというと、てっきり
かわいそうな奴隷たちが作ったみたいな
印象があったんです。そういう資料しか、
情報として、与えられてこなかったものですから。

でも、現場に立ってみたら、
「そんなはずはない!」
「渋々作ってできるもんじゃない!」
一瞬でわかりましたもの。
小川 そうでしょうな。
糸井 ああいうものって、
イヤイヤじゃ、できないですよね。
小川 できないですよ。
「最後まで」はできない。
奈良の都も、一緒ですよ。
糸井 見苦しいものは、奴隷を使って
イヤイヤ作らせたってできると思うんです。
だけど、美しいものって、本気でみんなが
チカラをあわせないと、できないと思う。
それを思って、ピラミッドの前で、
ぼくは涙が出たんですよ。

小川さんの話を聞いてみると、
そういう気持ちで、また法隆寺を見たくなる。
小川 やっぱし、イヤイヤやれば、手抜きをしますよ。
そういうことがないから、持っているんでしょうな。

法隆寺で言えば、山から切り出して
運ぶというのだえけでも大変なことですよね。
糸井 それをつくっていた人の姿を考えると
ゾーッとするし、美しいですね。
よっぽどつくりたかったでしょう。
小川 そうだろうなあ。
自分でもこういう仕事をやっているから
よくわかるんだけれども、最初は
たとえば権力とか何かいろんなことで
涙を流してつくるかもしんないですけども、
それが形になってくる、でき上がる……。
そうしたら、その時には、みんな忘れて
もう、うれしいことしか残ってないんです。

それが、ものを作るという人、ですよね。
途中はやっぱり苦しいかもしんないですけど。
糸井 それが、ひとりじゃできない、
というところがまた……すばらしい。
小川 そうですね。
糸井 想像すると、いろんな物語があったでしょうね。
小川 そうですね。
ですから、わがままでは
この建築はできませんよね。

たとえば、陶芸家は、
自分で気に食わなければ出さなければいいですよ。
糸井 割ってしまえばいいんですよね。
小川 ええ。
しかし、建築の場合、仕事を受けた以上は、
悪くてもよくてもつくり上げなくちゃだめだ。
だから、そういうわがままはできない。
ほんで、ひとりではできない。
みんなの力を借りなくちゃできないわけです。
糸井 同じ木組みで100段も200段もつくる、
なんていう時、1人で100つくるわけはないわけで、
「俺がぜんぶやる方がいいのに」と思っている人でも、
きっと、まわりに合わせて、そろえるわけでしょう?
小川 はい。
糸井 そういうときには、
小さな戦いが山ほどありますよね、きっと。
小川 そりゃそうでしょうな。
糸井 もともと意地っ張りですよね、
それだけのものをやる人は。
小川 それに、昔であれば、今のように
規格というか、寸法がぴたっと合ってないですよ。
みんなばらばらですよ。
裁断するのこぎりがないんですし、
木を割って使うんですから。

「木を割る」ということは、
木の性なりにしか割れないんですよ。
自分でいくら、
「こういうふうに割ろう」と思ったって、
その木の生まれた性にしか割れない。
それを適材適所の場所に持っていって
組み上げるんです。
糸井 のこぎりが、ないんですね。
小川 うん。ですから、今の建築のように
規格化されたものを組み上げるなんていうのは、
ひとりだけがいればできるような、
とても楽なことなんですよ。難しいことではない。

しかし、昔のものは、全部規格化されていない。
みんなふぞろいです、ばらばらです。

それを組み上げるということは、もう全員が
棟梁のような考えを持たなくちゃできないです。
ふぞろいでも、そのままやっていったら、
傾いたり何かしますけども、
それはある程度のところへ行くと
軌道修正をちゃんとして、またそこから建てはじめる。

(つづく)

2002-09-27-FRI

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