岩井俊二監督と、
ほんとにつくること。

対談「これでも教育の話」より。

第3回
やめどきは、いつ?
(岩井俊二さんのプロフィールはこちら)




岩井 ひょっとすると観客の人って
誤解してるかもしれないと思うんです。
映画って、だいたい2時間くらいでしょう?
ところが、映画は、
もっと時間をかけて撮られていて
いろんなことを検証する余地は
いくらでもあるわけですよ。
だから、ぶっつけ本番のスポーツとは違って、
やり直しがきくんです。
あたりまえのようなことだけど、
自分の中で、ここは合格点だ、というのを
とことん見出しながら撮っていく。
糸井 答えになるまでやってある、
ということですね。
岩井 ええ。じゃあ、その自分の合格点が
何なのかというと、もうそれは
自分が見ておもしろいか、
おもしろくないかということで。
糸井 さっき話に出てきた
他人から判断されることをやめた、
ということだね。
岩井 しかも、その判断基準は、
「何が言いたかったか」とかじゃなくて、
自分が見て「快感を感じるかどうか」だけ
なんですよ。
どんなお話であっても、そうなんです。
映画の「2時間」という体感の中で、
撮っていて現場でためらうものは
やっぱり何かの理由でだめなんですよ。
「外になんか出せるものじゃない、これ」
ということになる。
糸井 素材としては、
自分でボツにしたやつが山ほどある?
岩井 そうですね。
あるシーンがうまくいかなかったせいで、
編集の段階で、話をぜんぶ
変えちゃおうと思ったこともある。
糸井 編集の時間が、ずいぶん長いらしいですね。
岩井 はい(笑)。
撮影中に計算しきれなかったという、
失敗でもあるんですけど、
でも、背に腹はかえられんというか、
ここまできたら、ちょっと2カットだけ
直しちゃおう、というような。
そういうこともやって、自分の中で
「これでもういいだろう」
というものが出てくる。
上映を観た人たちから感想を聞いたときには
「あ、そう・・・そんな話だったよな」
というぐらいの、
遠い話を聞かされているような
かんじもするんです。
糸井 へぇぇ。
岩井 「どんな話かすっかり忘れてたぜ」
というぐらいになってるんです。
だから、制作の後半戦はほとんど料理に近い。
味見て、うまいとかまずいとか言ってる。
糸井 「これで終わり」という、
どこでやめるかが、難しいですよね。
ただ、映画は他人が絡んでいるから、
もう一度1000人集めて撮り直すのは
無理だとか、そういうことがありますよね。
岩井 ええ。
糸井 でも、特にデジタルのゲームを
つくってる人なんかは、
「ドツボ」にはまっちゃうんだけど、
いくらでもやり直しができちゃうんですよ。
なおかつ、つくってるあいだに
ハードウエアが進歩しちゃうと、
今だったらもっとこうできるんだ、
とかを考え出すんです。
そうすると、
一からやり直したくなったりとか(笑)。
「やめかた」というものについて、
ものすごくみんな、たいへんに
なっているんです。
岩井 そうですね、
それはすごくわかりますね。
糸井 絵を描く人だったら、個人の判断で、
「わかった、やめだ」といえばいい。
でも「おれはやめたくない」とか、
「あそこ、直したい」というやつが
人間としていたときには、しんどいですよね。
岩井 そうやって直しても、
百点満点が出るわけじゃなくて、
「まあ、よしとするか」
ということもあります。
「ここをもうちょっと、ここをもうちょっと」
と思っていたところは、あとで見ても
「あ、ここ」と、残りますね、どうしても。
最後のほうは、仕上げ切るということを
永遠にやってるんですけど、
もう、このまま仕上がらないほうが
いいんじゃないかと思ったり。
「十分に楽しんだから、もういいや」
みたいなかんじで終わるんだろうか(笑)。
糸井 何のために完成させるんだ!
そういう、欲望のような感覚は
あるだろうね。
岩井 映画って、中途半端なんですよ、
2時間というサイズが。
4時間とか1時間とかのほうが
まだすっきりくるんです。
中途半端なんですよね。
どうしてその枠に
着地させなきゃいけないかがわからない。
1時間ぐらいがほんとはいちばん、
エッジのきいたものに
なったりするんですけど、
1時間だと周りが許してくれないしな。
糸井 本にしても、人はきっと
1ページぶんくらいしか、
覚えていないんだよね。
だけど、あのくらいの厚さというのを
商品として認めているから、
商品としての単行本にあの厚さは必要だけど、
本の本来の意味って、
もしかしたら「ある1行」かもしれない。
岩井 そうですね。
1時間ものの映画にみんながお金を払って、
それかひとつのベースになっていけば
いいのかもしれません。
糸井 プラモデルがついているお菓子が
売られていますよね。
あめが1個入ってるだけなのに「お菓子」。
制作した側は、プラモデルをつくった、と
思っていても、あめという商品の形は
守っている。
ああいうことを
くり返しているうちに、様式というのは
おそらく変わってくるんだと思うんです。

<つづきます>

2003-04-14-MON

BACK
戻る