浅草今昔展 編

その5 明治からのモダンな浅草と戦災からの復興
江戸東京博物館で開催中の『浅草今昔展』。
その担当学芸員である
沓沢博行さんにうかがう浅草のお話は、
本日がラストとなりました。
(でもまだまだ、このシリーズは続きます。
 どう続くのか、今回を最後までお読みくださいね)

さて、最後に沓沢さんから教えていただくのは、
江戸で隆盛を極めた浅草の文化が
明治、大正、昭和と
どのような変化をみせてきたか、についてのお話です。

── 江戸が終わり、明治を迎えて、
浅草はどう変化をしていくのでしょうか。
沓沢 明治6年に、浅草は東京府の公園に指定されます。
それまでは浅草寺の寺領、
つまり寺の領地だった場所が、七区に区画された
浅草公園に整備されていくわけです。
仲見世は煉瓦造りの建築になりました。
── モダンな浅草に。
沓沢 はい。このような。

▲東京浅草観世音並二公園地煉瓦屋新築繁盛新地遠景之図
 歌川重清/画 館蔵
※各画像は、クリックすると大きくなります。
── ほんと、煉瓦だらけで。
五重塔が右奥に見えますね。‥‥左奥の塔は?
沓沢 その塔については順を追って解説いたします。
まず、ですね、
もともと、近代に入るまで、
高い所で景色をみるということって
それほど一般的ではなかったんですよ。
やっぱり権力者がやることだったんです。
それが、近代に入ってですね、
浅草寺の五重塔を修復するときに、
塔に足場を作って一般の人に上らせる
ということをやってみたんですね。
── 見物料をとって。
沓沢 ええ。そしたらこれが大当たりで。
これはいける! ということで、
今度は浅草に富士山をつくるんですよ。
── 富士山を(笑)。
沓沢 これがその、人造富士山です。

▲東京名所之内浅草公園冨士山之図
 矢田部多十郎/画 館蔵
── すごい(笑)。
沓沢 33メートルの富士山です。
これも大当たりしたんですけれど、
台風でこわれて、
3年くらいでなくなってしまうんですね。
── 残念。
沓沢 でも、高いところに上らせるのはイケル、
というのはありまして、それで、さっきの塔、
凌雲閣(りょううんかく)が建てられたんです。

▲浅草公園凌雲閣之図 田口米作/画 館蔵
── すごいですね、浅草の勢いは。
沓沢 凌雲閣には日本で初めてのエレベーターが
中にあったんですよ。
── へえ〜。
沓沢 しかしそのエレベーターは
故障が多すぎて半年で使用中止になるんですけれども。
── ああ(笑)
沓沢 まあ、それでも人気はありまして。
凌雲閣の復元模型が展示されてましたでしょ?
── あ、そうか、あれが。
すみません、駆け足でみてたもので‥‥。
沓沢 凌雲閣の中には、
諸国の名産品を集めた物産店ですとか
美術館のようなものとか、
そういう階もあったようです。
── たのしかったでしょうねー。
あ、これは「花やしき」の資料で?

▲花やしき案内図 館蔵
沓沢 はい。今でもある「花やしき」です。
「花やしき」は幕末のころからありまして
もともとは植物園だったんです。
── またもや知りませんでした。
沓沢 でもやはり植物だけでは厳しいということで
明治に入ってリニューアルするんです。
そうするとご覧のように、
もう、なんでもありの場所になりまして。
── ライオン、黒豹、シマウマ‥‥これは動物園?
沓沢 ゾウの曲芸で集客をはかってみたり。

▲浅草公園花やしき 大象 好文堂/印行 館蔵
── レヴューとか劇場もありますね。
ほんと、園内が見世物小屋のような雰囲気です。
沓沢 見世物小屋といえば、奥山がありましたよね。
── 奥山、はい。
沓沢 明治に入って浅草が公園地に指定されて、
奥山のお店も移転させられてしまったんです。
田んぼだったところを埋め立てて、
つくった地域に移されてしまう。
そこが、浅草六区なんです。
── はあ〜、なるほど、そういう。
沓沢 ええ、それが結局、浅草六区という
映画興行街として有名な町の形成に
つながっていくんですね。
── 生命力がすごい、とでもいいますか‥‥。
沓沢 映画で盛り上がっていたころの
浅草六区の絵はがきが、こちらです。

▲浅草公園六区の光景 絵葉書 館蔵

浅草四区には、
日本で最初の私設水族館もありました。

▲浅草水族館(『風俗画報第204号』より)
 東陽堂/発行 館蔵
── ほんとに知らないことばかりです。
沓沢 この水族館はあまり人気が続かなくて、
2階に劇場を作って喜劇をはじめるんです。
でも、お腹がすいたら水槽の魚を食べてしのいでいる、
なんてうわさがたつくらい
人が入らなかったみたいで。
── そんなうわさが(笑)。
沓沢 ところがその中からひとり、
すばらしい喜劇役者が出てくるんです。
それが榎本健一、エノケンていう。
── えええええー?!
沓沢 エノケンはそこから出てきたんですよ。
── エノケンは水族館から出てきた!
沓沢 まあ、エノケンが魚を食べていたかは
さだかではないですが、
そこからみるみるスターになっていきます。
── 大スターですよ。
だって、「月刊エノケン」ですからね。

▲月刊エノケン 第1号
 ピエル・ブリヤント文藝部/編
 浅草松竹月刊エノケン社/発行 館蔵
沓沢 関東大震災の打撃も、映画の流行や
エノケンに代表される喜劇スターの活躍で
浅草はなんとか再興してみせて、
明治から昭和までにぎわいを保つのですが‥‥。
── 戦災、ですね。
沓沢 これが、1945年の浅草寺本堂です。

▲浅草寺本堂の焼け跡 浅草の会提供
── 焼け野原に。
沓沢 それでも、浅草を愛する人々の手で、
徐々に復興していくんです。
これは1955年ごろの仲見世から観た仮本堂です。

▲仲見世からみた本堂(再建中)と仮本堂 浅草の会提供
── 10年でこんなに‥‥。
沓沢 1958年には現在の浅草寺本堂が落慶、
1960年には雷門も復活しました。

▲95年ぶりの雷門復活 浅草の会提供
── その浅草寺本堂の落慶から、
ことしが50周年というわけですね。
はあ〜、いや、ありがとうございました。
沓沢 とんでもない、こちらこそ。
うまくご説明できたかどうか。
── よく理解できました。
もういちど最初から展示をみたいです。
沓沢 それはもう、ぜひどうぞ。
── ‥‥ところで、あの、沓沢さん。
沓沢 なんでしょう?
── 昔から今の浅草のお話をうかがってですね、
せっかくの機会ですので、こう、
「今」の浅草の人にお会いしたいなあ、と。
‥‥沓沢さんは、何度もお会いしてますよね。
沓沢 はい、何度となく。
── どういうかたがたでした?
沓沢 うーん、やっぱりその、なんでしょうね、
私なんかとくに秋田から出てきた人間ですから、
そういう人間からすると浅草の人っていうのは、
いい意味でもわるい意味でも
江戸情緒が強く残った人たちだと‥‥
── つまり、こわい感じで?
沓沢 ‥‥今回、お神輿を移動するときに、
トラックで館の前まで持ってきて、
それから台車で運ぶことになったんですね。

── はい。
沓沢 なにしろ重たいので人手がいるんですよ。
で、浅草の若い衆30人くらいに
来ていただいたんですけれども、
まあ、みなさんほんとに威勢がいいんですよ。
── そ、そうですか‥‥。
沓沢 大丈夫です、みなさん気さくなかたなので。
何人かこころあたりがありますので、
私からお会いできるよう、お願いしてみます。
── ‥‥‥‥はい。
せっかくですので、よろしくお願いいたします!
2008-10-31-FRI

 

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