江戸が知りたい。
東京ってなんだ?!

「江戸東京博物館」を知の遊び場にしよう。

最終回
これさえやっとけば、
江戸で生きていくには大丈夫!

ほぼにちわ!
江戸博で開催中の「江戸の学び」展
いよいよきょう(3/26)が最終日となりました。
学芸員である市川寛明さんと石山秀和さんに
お話をうかがってきたこのシリーズも
最終回とさせていただきますね。

今回は、寺子屋での学びが
どんなふうに江戸の文化に関係したか、
というお話です!

── 往来物と呼ばれる教科書ですが、
どんなものを読んでたんですか。
今でいう、名作文学であるとか?
石山 往来物っていうのは、
今で言うと教科書ですから、
隠れベストセラーなんですよ。
だから出版業者もこれを狙って、
戯作者とタイアップして往来物を出せば、
もっと売れんじゃないかと考えまして。
十辺舎一九とか曲亭馬琴とか式亭三馬とか、
有名な江戸の人気戯作者と
タイアップして出す。
馬琴の日記によると、
実際に出版社が来て、
書いてくれと言われたとき、
一回断るんです。三両というのを断って、
五両まで値段をあげて。
で、書いたら書いたでね、
本人やる気出てきちゃって、
何度もこんな字じゃだめだ! とか、
1年間くらいずーっとかかりっきり。
もちろん、自分の『南総里見八犬伝』と
並行しながらね、やってますけど。

▲楠三代往来 十返舎一九著 文政7年 小泉吉永氏蔵
市川 それから『実語教・童子教』『庭訓往来』
みたいなものは、みんなが読む、
それこそ古典じゃないでしょうか。
みんなこれは必ず暗唱しちゃう、
っていったような
性質のものだと思いますよね。

▲絵本庭訓往来
市川 それから法令も使われましたね。
使いなさいって、奨励するんですよね。
そして、熟語集みたいな語彙集。
それから、消息。
これは手紙のマナーブックみたいなものです。
それから、地理。歴史。
そして商売往来ですね。
── これさえやっとけば、
江戸で生きていくには大丈夫そうですね。
石山 よく、川柳で詠まれてる歌にあります。
「名頭(ながしら)と江戸方角と村の名と
 商売往来これでたくさん」。
名前の頭、つまり苗字ですね、
名前の字を熟語集にして
出した本があるんですよ。それが名頭。
江戸方角っていうのは、江戸の地名ですね。
村の名っていうのは、
“村の名づくし”って言って、
近隣の村の名前を、読み書きできた方が
当然いいということなんです。
そして商売往来。これだけで充分だと。
江戸に住んでる子だったら、
あるいは江戸の近隣に住んでる子だったら、
まあ、これくらいで生きていけますよと。
── そうすると、寺子屋に行ってる子供たちって、
知ってることがだいたい、
共通してるってことになるんですよね。
石山 3年くらい学べば、ある程度はね。
── 後々大人になって、
川柳とか詠んだりする時に、
共通の知識があると
すごく便利でしょうね。
石山 ええ、一定の教養が、こういったもので、
形成されたと思いますよ。
ただ、今回の展示でも出してますけど、
高度な教養を積む人もいれば、
「これでたくさん」という人もいて、
ばらばらなんですよ。
── じゃ、ものすごい頭のいい子供が
出ちゃった場合ってどうしてたんですかね。
「もう、超天才! こいつ!」
みたいなのがいた場合は‥‥?
‥‥あ、功利主義ではないわけだから、
だから上を目指すということは
なかったのか‥‥。
市川 そうですね。
どんなにできようが、できまいが、
親の仕事を継ぐことに変わりはないわけです。
ただ、ほんとの鬼才っていうか才人は、
枠に収まらずに飛び出しちゃう人も
いることは、いましたね。
── 以前お話をきいたなかでは、
円山応挙もそうでしたものね。
奉公先のご主人が才能をみつけてくれて
狩野派に弟子入りさせてくれたところから
才能が花開いて‥‥。
市川 つい最近までだって、
そうだったんじゃないかと思いますよ。
東大くらい行ける人だって、
家業を継いだということはざらにあった。
── そういえばうちの実家の近所の
たこ焼き屋さんは、
一橋大学の出だというので評判でした。
ところで、男の子と女の子は
学習内容が別だったんですか?
石山 女子用の教科書というのがあって、
それは基本的にはかな文字なんです。
やっぱり女性の使う文字は、
基本的にはかななんですね。
── 男はかな文字を書かなかった?
石山 漢字かな交じり文ですね。
この資料を見てください。
これ一部漢字を使ってますけど、
ほとんどひらがなです。
絵半切(えはんぎり)といって、
手紙用の半切紙に、
花鳥などの絵がすられたものです。
これを買ってきて、上から字を書きます。
手習いの上達を披露するという
目的もあったんでしょうね。
この絵半切、ふたつ並べて見ると、
なかなか面白いんです。
この「いろはにほへと」と「初春の」って
明らかに腕が違うんですよね。
腕が違うとね、やっぱり使ってる絵半切も、
全然レベルが違うんですよ。

▲▼絵半切 小泉吉永氏蔵
── 「いろはにほへと」を書いた人は、
あまり自信がなかったんだ!
だからちょっと、こう「へたうま」みたいな
それなりの絵半切を、
「私これでいいわ」なんて買ってきて(笑)。
市川 逆に上手い人は、いい絵半切を使って、
絶対失敗できない緊張感の中で
書かなきゃいけないわけですね。
やっぱり集中力とかね、
こうやって磨かれるのかなって
思いながら見たんです(笑)。
── いや、ほんとそうですよね。
本番だと思ってやるってことが
すごく大事なんですね。
ところで、
この蛇腹になってる折り本ていうのは、
先生を驚かすためにも
使われたんですね(笑)!
市川 (笑)。

▲寺子屋遊び 歌川広重画 天保年間後期 公文教育研究会蔵

▲師匠を驚かす子ども「莟花江戸子数語録」(部分)
 歌川国芳画 安政4年 公文教育研究会蔵
── 広重も描いてますし国芳も描いてますね。
先生を尊敬してるわりには、
こう、仲がいいですよね。
市川 そうなんですよね。
── ものすごいこわい存在っていうよりは、
楽しかったっていう風にしか見えない。
先生も人間的だし。
不良少年もいたんですね。
市川 「不行跡の文吉くん」。
石山の研究なんですけど、
歴史学の人も、学校の先生たちも、
おもしろがってくださる展示なんです。
「昔からいたんだな、こういう奴が」って。
石山 大野雅山の門人に、数えで10歳の
「文吉」っていう子どもがいたんです。
その子が、どんなに問題児だったかを
雅山が文久3年の日記に残しているんです。
【門人文吉の不行跡(抄訳)】

三月十八日
 小刀を持って庭裏あたりに植え置きし
 木を切り歩き、これを取り留め候えば、
 悪口を吐き、或は朋友の持ち物を切り、
 机の下に昼寝致し、机を重ね上に座り、
 少しも従わず、甚だ以て困り入り候
三月二十日
 良助を水取桶に突転し、
 双紙に男根などを書き乱し
四月三日
 この日も一字習わず読まず、
 ただ机・文庫の上駆け歩き、
 稽古場中を騒がし、
 とめれば悪口を吐く
四月二十日
 我机前に来り、尻をまくり、
 寝て居り大の字になり、実に類なし、
 師匠とも何とも思わず、唯ふざけ次第、
 実に難渋至極、これ師匠の不運也
四月二十七日
 稽古所にてちんぼを出し、子供に見物をさせ、
 これを止むどれども少しも聞き入れず、
 実にこの様子の子供百人に壱人もなし
五月二日
 千人に壱人もなし

── ひどい‥‥!
市川 こんなんだったら、
破門とかクビとかにすればと
今の人なら思うところですが、
でも、寺子屋には来るんです。
ひきこもりにもならないし、
登校拒否にもならないん。
── 親を責めるわけでもないんですね。
石山 この記録見る限りはないですね。
── 先生も何のつもりで書いてたんでしょうね。
例えば、今だったら、
後で文句言うために書いとこうとか、
色々あるじゃないですか。功利主義的には。
石山 一応、大野雅山は
自分が悪いんじゃないんだということを、
一番冒頭に書いてますね。
でも、この日記のおかげで、
何がどうしたってこともない。
市川 なんとなくイメージですけどね、
「怒らずに、背中で語る」というタイプの
先生っていませんでしたか?
掃除をやらない生徒の前で、
あえて、自分でもくもくと
掃除をしている先生とか。
そういう後ろ姿を見せる教育効果、
寺子屋ってそういうタイプの教育だったと思う。
悪いことしても体罰するわけじゃない。
日本では体罰の文化が前々発達しないんですよ。
ルソー以前のヨーロッパとは全然違っていて、
ヨーロッパの伝統社会では、
体罰に積極的なんですよ。
子どもには、知識もしつけも、
注入しなきゃいけないという、
調教型の教育なんですよ。
── 悪いことしたら、痛い目にあうと。
市川 ええ。子供ってのは、
そうしないとちゃんとした
まともな人間にならないと。
これは、ある種説得力持ってるんですよ。
でも、そういう教育観を
日本は持ってなかったんです。
悪いことしたらピシピシやるとか、
覚えなさいってピシピシやるとかって
いうんじゃなくて、いいことを見せながら、
ずっと待つんです。
「待ち」の教育のような気がしますね。
線香を持って正座してなさいという
寺子屋の罰にしても、
あの線香は、熱いって意味ではなく、
時間測るだけなんですよ。

▲「諸国稽古図会」(部分)歌川広重画 天保頃 公文教育研究会蔵
── 線香1本分ガマンしなさいっていう?
市川 あとは、留め置き、つまり居残りで
先生に説教されるとか。
それが寺子屋の一番重い罰なんですよ。
── 破門! ということは
ぜったいにないんですか。
市川 破門! となる場合もあります。
── あるんですか?!?!
市川 けど、謝り役というのがいるんですよ。
── 謝り役?
市川 「おまえは破門だ!出てけ!二度と来るな!」
とか言って、机を縛り付けられて
追い返されるわけですよ。
それで、泣きながらえーんって
帰る絵があるんですけど、
そうすると近所のね、何と言うか、
お年寄りか何かが、もう一度連れて来て、
「すいませんでした」って謝るんです。
── 親じゃなくていいんだ。
市川 親じゃなくてもいいんですよ。
── 共同体だから。
市川 子供である場合もあるんですよ。子供。
── 子供が子供を?
市川 同じ寺子屋の子供がね、
「すいませんでした」って
謝りに来たりするんですよ。
そうするとね、
今回は許してやるって話になるんですよ。
それ、出来レースで、
最初から破門するつもりなんかないんです。
「おまえは破門だ!馬鹿者!」とか言っといて、
で、来るのを待ってるわけですよ。
── ああー。
市川 もうそれが前提となった破門なんです。
── 落語みたい(笑)!
市川 だから、破門って、
かなり例外的だったと思います。
── さきほど「破門!」のときに
机を縛り付けて帰されるということでしたが
‥‥机は私物だったんですか?
市川 そうです、そうです。
入学する時に持って来るんです。
親が机持って、子どもの手をひいて
来るんですよ。で、裕福な商家だと、
奉公人がね、ついてきて。
お酒とかそういうのいっぱい持って。
── 先生にさしあげるんですね。
市川 ええ。それが定番の図なんですよ。
── お入学っていうのは、
時期が決まってたんですか。
市川 時期はね、決まっていたということでは
ないんですが、だいたいは、初午です。
2月くらい。それから、なぜか、
6月くらいとかも多いんですけど。
── 卒業とかも、とくに決まっていない?
自然にいなくなった感じがするんですけど。
市川 そうだと思います。
時期もばらばら。だって、
個人で進路も違うし事情も違うし。
── その時は、あれですかね、また親が来て、
「お世話になりました」みたいな
儀式的なことはあったんですかね。
市川 記録は見たことないですけど、
個別にはあったと思った方が
自然だと思いますけどね。
石山 とくに卒業時にではないですが、
先生に「お世話になりました」というのは、
農村ですと村の祭りで、
ちょっと用事があった時には、
筆子が師匠に、蒸篭を贈るっていうような
記述がありますね。
市川 結婚式に呼んだりとか江戸に奉公行く時には
挨拶行くとか、帰ってから挨拶行くとか、
そういう関係が続くんですよ。
良くも悪くも、人間関係の濃密な社会が
基本なんです。
今もね、師弟関係ってあるじゃないですか。
卒業生が遊びに来たりとか、
先生って‥‥場合によっちゃ、
一生続く場合もありますよね。
でも、今と昔はどう違うかって言うと、
今はね、例えば担任と
クラスの生徒っていう関係って、
これ、師弟関係っていうよりも、
制度的な職制関係なんですよ。
純粋に私的な人格関係と、
職制的な師弟関係と、
それが二重化してるんですよね。
でも、それに対して、
江戸時代は一本しかないんですよ。
私的な師弟関係しかないんですよ。
しかも強烈で、絶対変えることができない。
とくに田舎だったら。
「二君にまみえず」っていう
武士の倫理とまったく同じですよね。
生涯続くんです。
だから先生も生徒も曲がったことができない。
やっぱり、今はまったく、
先生が悪さしちゃう世界ですからね‥‥。
── ちょっとそろばんのところを、
もう一度戻って聞いてみたいんですけど、
読み書きそろばんと言っても、
読み書きが多くて、
そろばんはそうでもなかった、
ということなのですが‥‥。
市川 そろばんてね、やっぱりひとつは
「難しい」ってのがあると思うんですけど、
よく「そろばん勘定」って言いますよね。
計算で動くとかね、損得を計算して
動くとかって、武士にとっては、
あるまじき行為だったんですね。
社会の質として。
── 恥ずべき行為。
市川 恥ずべき行為なんです。
このへぼい殿様に仕えてたら自分は駄目だ、
と思っても、江戸時代の武士は、
運命を共にしなきゃいけないんですよ。
中世の武士はもっとドライですよ。
中世の武士はね、こんなへぼい奴はやめて、
次行ってみよう、みたいな感じで、
動いてくんです。
でも江戸時代は、
すごく平和な時代が続いちゃったから、
観念的なものがすごく大きくなって、
この人のために一生仕え、
一緒に死ななきゃいかんみたいな、
そういう教育を受けるわけですよ。
すごい理想主義すぎちゃって、
まったく現実感がない。
そして「計算をする」っていうのは、
封建的な社会では
非常にあってはならんことみたいに、
肥大化するんですね。
── その考え方がベースにあるんですね。
市川 武士たちは、
社会をよくするためにはもちろん動きますよ。
水路を作るとか、普請をするとかだったら、
ものすごい計算をするわけですよ。
三角関数もやりますし、
立方根とか平方根とか当然やりますし。
けれどもそういう人たちって、
低い位置に置かれちゃうんですよね。
そういう人たちの不満っていうのは、
ものすごくあるわけです。
── 技術としての算術だったってことですか。
市川 うん。で、しかも金儲けとか、
そういうのに密接に関係してるから
余計低く見られちゃう。
‥‥一般社会でもちょっと
似たようなところは、やっぱりありますよね。
── 江戸の町人でもそうですか!
市川 そういうところはありますよ。
ただし、町人はやっぱり生活の中に
密着していますから。
商人はそろばんできないと
困っちゃいますからね。
商人の子どもはそろばんを当然やります。
── それは、寺子屋でやるんですか。
市川 寺子屋でやる場合もありますし、
塾ももちろんあります。
── あ、「和算塾」みたいな塾も
寺子屋とは別にあったんですか。
市川 もちろん、一緒に教えてくれるところも
ありますよ。
手習みたいなものは寺子屋行って、
そろばんはそういうところに行って。
── じゃあ、男の子も、
女の子より暇だったっていうけれど、
中にはそろばん塾にも和算塾にも
行ってたような忙しい子もいたんですね。
市川 いた可能性はもちろんあります。
商人でしたら、必須ですよね。
ただし、みんながみんなって
いうわけではないですよ。
だって、どんぶり勘定とかで充分な、
その日暮らしの家計だったら、
足し算引き算ができればいいわけですよ。
立方根、平方根、必要ないですから。
── 江戸の、町人て実はわりと豊かというか、
そんなに働かなくても大丈夫だったと
聞いた事がありますが。
市川 ええ。江戸の町人って、
「その日暮らし」が全然できちゃうんですよ。
つまり、朝例えば、極端な話、
一文もなくても、朝いくらかお金を借りて。
── えっ、誰に借りるんですか?
市川 いるんですよ。金貸しが。
いっぱいいるんです。
── 高利貸しなんですか。
市川 高利貸しなんですよ。
朝数百文かりて仕入れをして
夕方100文あたり3文の
利息を払っても全然平気なんですね。
実は日利3%って猛烈な高利貸しなんですけど
金額が少ないと割高感がないんですね。
── 返せちゃう?
つまり、借りたお金を元手に‥‥
市川 なんか売る物買って来て、売り回ってって。
── その日に働き、日銭を稼いで、
借金帰して、残ったお金で、
お風呂行ってあいよっつってご飯食べて
お酒飲んで寝ちゃう?
市川 ‥‥というのが江戸はできちゃうんですよね。
他の都市がどれくらいできたかっていうのは、
それはかなり疑問ですけど、江戸は豊かなんで。
武家の消費支出も多いし、人口も多いんで、
できちゃうんですね。
── 聞けば聞くほど、江戸の人たちが
生活も教養もゆたかななかで
暮らしていたんだなあというのが
わかりますね。
寺子屋で基本教養みたいなものを
8割がたの人が身につけていった、
っていうことが、江戸の文化に
すごく大きく影響してたんですね。

市川さん、石山さん、どうもありがとうございました!
企画展は終わっても、江戸博では
たいへん楽しい常設展がいつも見られますし、
次の企画展もひかえています。
ぜひ、おでかけくださいませ!

2006-03-26-SUN


BACK
戻る