江戸が知りたい。
東京ってなんだ?!

「江戸東京博物館」を知の遊び場にしよう。

第3回
寺子屋の学費っていくらだったの?

ほぼにちわ!
江戸博で開催中の「江戸の学び」展について、
学芸員である市川寛明さんと石山秀和さんに
お話をうかがっています。
きょうは、寺子屋の学費と、
それからどんな子どもたちがいたのかってことを
中心にお聞きしていきますね!

── 江戸の寺子屋って
学費はどうなっていたんでしょう。
たとえば今は、いい学習塾に通わせると
お金もかかるじゃないですか。
いっぱい習い事をすると、
親も大変だったんじゃないかと‥‥。
市川 それは大変だったと思いますよ。
── やっぱり、お月謝みたいなのがいる?
市川 いりますね。はい。
でも、日本の人口の大半を占めていた
農村社会っていうのは、ちがいます。
「ない人から、とる」
ということはありません。
そもそも、入学金とか
授業料って発想じゃないんです。
── あ、違うんですか。
市川 教えてくれる先生や、
教えに感謝しますっていうことなんです。
今でもお歳暮とかお中元をあげますよね。
それは基本的には
日頃の厚誼に感謝する意味ですよね。
ま、そうじゃない部分も
かなりあるでしょうけど(笑)。
でも、なかなか、そういうの、
なくなりませんよね。それはやっぱり、
ある種の気持ちの表現を
物で交換し合うっていうということなんです。
そういう伝統ってのは、
どこの社会にもやっぱりあって。
寺子屋では、例えば、
席書(せきがき)と言って、
綺麗な字を書いて貼り出そうという
発表会みたいなのがあるわけですよ。
その最後に食べものが
出たりだとかするんだけど、
その時に先生にお金を包むみたいなことが
あるわけです。
それは、日頃の指導の賜物に対する感謝、
ということですね。
あと、振る舞いものの感謝とか、
そういう形でお金が集まる感じです。

▲「幼童席書会」 弘化年間 公文教育研究会蔵 (下は部分拡大図)

── 定価ではないんですね。
今のお坊さんへのお布施に近いですね。
市川 近いです。
対価じゃなく、感謝の気持ちだから、
相場がないんですよ。
── じゃあ、お金がないからといって、
行きたい寺子屋に行けない、
ということはないわけですね。
市川 ええ。基本的には
受け入れられてたと思いますね。
つまり、勉強するっていうのは、
道徳的な人間に育ててくことだから、
学びたい人はウエルカムなわけですよ。
行きたいっていう人を拒む理由は
まったくない。
それが農村社会の基本的な寺子屋の
あり方だと思います。
でも、江戸はね、若干違ってくるんですよ。
── 違うんですか。
市川 ちょっと、ね、
経営の要素が入ってくるんですよ。
── へえー!
市川 都市っていうのは、現代に近いんです。
田舎でしたら、もう当然、一対一の
すごい濃厚な師弟関係なんですね。
一人のお師匠さんがいたら、
その人が死んじゃったら、おしまい。
師弟関係を誰か他の人と結びかえる、
ということができない。
武士の「二君に仕えず」
といった感覚と同じです。
けれど、江戸には100人200人とか、
すごい数の生徒をもつ
寺子屋があったりするし、
この先生はダメだからこっちの先生とか、
そういうことが起きていたと思われます。
で、払うお金も授業料にかなり近い制度に
なってきます。
── だいたいこのくらい頂いてますよ、
みたいなガイドラインがあったんですね。
市川 たぶんそうだと思います。
人格関係じゃない替わりに、
授業料的なものが発生してた可能性が
かなり高いんですね。
人気の寺子屋だったら、たぶん定額。
しかも銭で。農村だったら、
額なんか決まってませんし、
払えない人は払わなくていいし、
お金がない人は大根だって何だっていい。
大根だって、何本てんじゃなくて、
大根だったら2本とか、
にんじんだったら3本とか
決まってるわけじゃないですよ(笑)。
── 気持ちですからね!
市川 気持ちですからね。
「先生ありがとうございます」
「お世話になってます」って。
しかも、七夕があったりとか、
重陽があったりとか、
色んな行事があるわけですよ。
── じゃあ、先生は、そこそこ暮らしていける。
お米もらったり、大根もらったりして。
市川 ええ。ただ、けして裕福な生活は
できなかったと思いますけど。
‥‥しちゃいけないっていう
倫理観はもちろんあったでしょうし。
── 寺子屋で先生をしていた人というのは
どういう人なんですか?
石山 農村では、やっぱり、
名主が一番多いですよね。
名主というのは村のリーダーです。
教養もあるし、
基本的には経済的にも豊かです。ですから、
人に施すということも行えるわけです。
あとは、寺子屋の名前通り、お坊さんですね。
寺子屋の始まりは、
室町時代の終わりくらいで、
師弟の教育機関としてのお寺がありました。
時代が栄えるに連れて、
農民の中でも名主が
そういう場をもつようになったんですね。
── 私の父が昭和9年生まれなんですが
悪ガキでお寺に預けられたといいます。
お寺が教育機関であるということが、
ずいぶん長く残っていたんですね。
市川 確かに、いいお寺であれば、
礼儀作法も教えますし、
人の生き方も教えますよね。
── では、江戸の市中ではどうなんでしょう。
石山 江戸は、武士が多いですね。
士族、特に浪人ですね。
結局食えない武士が、自分の生活の糧に、
寺子屋を経営するんです。
今回展示したので、有名なのは曲亭馬琴です。
曲亭馬琴は用人といって、
武士と奉公人との間みたいな家なんですよ。
馬琴の息子は医者になっちゃうんだけど、
孫の太郎ってのは、同心って言って、
一応武士にはなるんですけれど。
そういう風な下級の武士が、
寺子屋をやっていたんですね。
── 教養もあるし、時間もあるし‥‥
市川 金はないし(笑)!
石山 明治期の調査なんですけど、明治の初めだと、
まだ旧身分とか出るんですよ。
昔は何の身分でしたかって。
やはり、江戸の場合は士族が多いです。
市川 寺子屋の先生には女性も多いんですよ。
石山 これも、農村と都市の大きな違いで、
女性の手習師匠が多いのが、都市ですよね。
── それも、例えば武士の奥さんとか
そういうことなんですか。
石山 も、いたでしょうし、
あとは、未亡人ですよね。
市川 それに、御殿女中なんかで行った人たちも、
当然素晴らしい字を書けたりするわけです。
そういう人がいっぱいいるわけです。

▲風流てらこ吉書はじめけいこの図
 歌川豊国(初代)画 公文教育研究会蔵
── その、お師匠さんになるっていうのは、
今だったら教員免許とかあるじゃないですか。
江戸時代は「やりまーす」って言ったら
なれちゃうんですか?
石山 手習師匠ってのは、書家でもあるんです。
ほんとに書で食べていける人も
いるんですけど、そうじゃなくて、
有名な先生のさらに弟子くらいだと、
そんなに有名じゃないから、
手習師匠を兼ねるわけですね。
で、書家であれば、
書道の免許皆伝を得られれば、
「あ、何々先生に繋がる人だから」
っていう評判を得られますよね。
── あ、そういうことですか!
石山 だから、農村の手習師匠も、
だいたい江戸のそういう有名な書家に
習ってから、もう一回、
自分の村に戻ってきたりするんですよ。
だから、資格というのと違うでしょうが、
ハクをつけるものは、
絶対に必要だったみたいですね。
── あの、士族の子供と町人の子供、
江戸にはいたわけですよね。
同じ寺子屋に行ってたんですか。
石山 ん‥‥。これもまだ、
資料的には明らかになっていないんです。
ただ、今回紹介した曲亭馬琴の門人帳には、
教え子たちの名簿の中に
稲垣栄次郎っていう人物がいるんですけど、
これの肩書きが、一橋御家人って
出るんですよ。
おそらく他のものは屋号がついてますから、
これみんな町人なんですよ。
町人の中に武士がいたということは、
一緒に学んでいたと言っても
いいと思いますよ。

▲馬琴が経営する寺子屋の「入門名簿」
 寛政9年〜文化3年
 左はその部分拡大図。
 一橋御家人 稲垣栄次郎とある。

市川 僕は、直感的に言えば、
分かれているっていうのは不思議。
むしろ、ごちゃごちゃになってて、
全然問題がなかったと思うんです。
身分制‥‥といっても、
区別のある社会じゃなくて、
職業が世襲される社会のことだから、
子供を区別する理由があったのかは
わからないんですが。
研究者のなかには
士族と町人の寺子屋は別だったと
いう人もいますね。
たしかに武家は伝統的には
家庭教育なんですよ。
だから、武家の寺子屋に相当するような
初等教育機関ってほとんどないんです。
藩校とかできても、それは今だったら
高等学校、大学みたいな。
── では、教養にあたることは、
武家の子どもは、
おうちで、直接教わってたと。
市川 親から子に教えるのが
普通のやりかたでしょうね。
武家は知識階級ですから
教えようと思ったら教えられるんです。
── あ、そうかもしれないですね。だけど、
浪人が師匠をやるように、浪人の子供は、
寺子屋に行ってたかもしれないですよね。
『あじさいの唄』っていう
ビックコミックオリジナルに載ってる
時代ものの漫画が、お父さんが浪人で、
子供の栗ちゃんていうのが
寺子屋に通ってます。
市川 それもまったく荒唐無稽な設定ではないと
思いますよ。武士身分ていうものがね、
すごく流動的で、ある時は武士的でも、
ある時は武士的じゃないってことが
平気で起きちゃうんですよ。
ある武家の奉公人になってると、
一応その武家の家臣ですから。
ある時は、1日だけ雇われて
武士になったりとかするような人たちが
いっぱいいるわけですよ。
で、浪人ももちろんいるし、
浪人も代々浪人だった人と、
ついこないだ浪人になって、
まだまだ俺は武士になるぞって人も、
いるわけですよね。
浪人にしても、
家禄を相続してるのがほんとの武士だって
言うんだったら、
武士じゃないのかということになる。
けど自分たちは武士だって思ってるはず。
実体としては武士ではないけれども、
自分は武士だと思ってる人はたくさんいる。
そういうことだったと思いますよ。
そうすると、寺子屋にも、
武士的な家の子と、ほんとの武士の子と、
ほんとの町人が一緒にいても、
そんなに違和感がないですよね。

今回はここまでです。
次回をおたのしみに〜!

2006-03-17-FRI


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