江戸が知りたい。
東京ってなんだ?!

新選組の生きた時代。第10回
有り余るエネルギーの結実。

ほぼ日 土方歳三が厳しかったっていうのは、
ほんとっぽいですか?
市川 実は、土方の人となりが、
よくわからないんです。
この展覧会を準備していて、
本物の資料を読み込んでいくと、
いちばん人となりがよくわかるのは、
近藤勇です。近藤はいっぱい
文字を書きますから。
彼の手紙やら何やら読んでると、
近藤はこういう人っていうのが
わかるんだけど。
土方はわからないです。
土方歳三肖像写真パネル
(佐藤家蔵/写真提供=
 日野市ふるさと博物館)
近藤勇肖像写真パネル
(佐藤家蔵/写真提供=
 日野市ふるさと博物館)

ほぼ日 土方は女の人がすごく好きだって
いうことはわかりますよね(笑)。
市川 それはわかったんです。
いい男で、確かにもてたんだろうし。
それはよくわかるんだけど、
人となりはよくわからない。
ただ、おそらく、
組織論のあり方からすると、
近藤は上に立つ人で、正論をぶって
鷹揚に構えてれば良くって、
それを組織した人には、
かなり厳しく締め上げる人がいないと。
やっぱり組織としては、
回ってかないとこがあって。
そういう普遍的なあり方から考えると、
そうやって伝説から言われてるような
側面っていうのはあったんだろうな、
というのは信じられるとこですよね。
司馬遼太郎さんがどうしてあそこまで
土方が好きなのかっていうのは、
僕は実は自分なりに理解できてない
ところがあるんですけれど。
ほぼ日 「ほぼ日」のスタッフで
「新選組なら誰が好き?」なんて話を
するんですけれど、
「それより坂本龍馬がいいなあ」
なんて話になったりするんですよ。
市川 それはわかりますよ。
龍馬だったら龍馬で、
やっぱり世界観がありますから。
日本の国はこうせにゃあかん、
みたいなところがあって。
それが新選組は
あんまり感じられないですからね。
なんていうか、悲劇なんですよね。
一種の悲劇なんですよね。
ドラマにしても、
この仲のいいグループが、
やがては殺し合うことになり、
最後は近藤自身も斬首となる。
それを我々はわかっていながら
見ているわけです。
ですから高杉晋作も西郷隆盛も
大久保利通も魅力的だし‥‥。

近藤勇晒し首の瓦版 小島史料館蔵
ほぼ日 新選組は悲劇として
見るしかないのかな。
この若者たち──新選組の人たちは、
逆の立場だったかもしれない、
出会った人が尊攘派で、
先にそこに傾倒してたら‥‥。
市川 ほんとそうですよ。
近藤自身も、
ある種のイデオローグとしては
成熟してないんですよ。
つまり、みんなを惹きつける議論を、
自分の中でたぶん作れてなくて。
で、けっこうばらばらとしてて。
ただ大きくは固まってたんでしょうね。
おそらくいろんな歴史の事件ごとに、
思想の確からしさとか考え方とか、
やっぱり問われるわけですよね。
その中でだんだんだんだんと方向が、
明らかになっていったんじゃないかなと
思うんですけどね。
ほぼ日 有り余るエネルギーはあって、
それが新選組に結実したのかなとも。
市川 歴史の舞台で活躍したいって思う若者が
実際にほんとうに歴史の舞台に
出れるかというと、
ほんのわずかしかいないんだけど、
彼らは希有な存在ですよね。
運と実行力とっていうことだと
思うんですけどね。
ほぼ日 あと、たまたま時代の流れで。
市川 でも、時代は等しくあったわけだから。
全ての人が出れたわけじゃなくて、
彼らは出れたんですよ。
運といえば運だと思うんですけど、
ただ、ほんとに、真摯であった。
そういうところに若者らしさが
見えますよね、ほんとに。
ほぼ日 年齢、かなり若いんですよね。
市川 20代後半から、30代前半ですね。
ほぼ日 なんかよく言われますけど、
そのぐらいの歳の人たちが
日本を変えていたわけですね。
新選組の末路は、
生き延びた島田魁(しまださきがけ)や
永倉新八の日記に詳しく
出てくるわけですよね。
市川 ええ。

島田魁日記(八月十八日の政変) 霊山歴史館蔵
ほぼ日 長生きした彼らと、
さらし首になった近藤勇とは、
どこが違ったんでしょう。
その分かれ目っていうのは
何なんでしょうね‥‥。
永倉新八と近藤勇は
途中で仲たがいをしてますよね。
物の本によると、逃げてる最中に、
永倉新八と原田左之助が
自分の家来になるんだったら、
一緒にいてもいいみたいなことを
近藤勇が言う。
ふたりは、家来とはなんだ、
みたいな感じで
別れ別れになってしまった‥‥。
同じ志でいたはずのチームが。
市川 あれね、不思議な話ですよね。
これは運ですよね。
ほぼ日 永倉新八や島田魁は
かなりの強運の人なのかもと
思いました。
市川 かなりの強運だと思いますよ。
ほぼ日 永倉新八なんて明治を生き抜いて
大正に亡くなっていますものね。
市川 しかもね、大事なときにちゃんと
本命のところに居続けて居続けて、
修羅場、修羅場に全部参加してて、
最後まで生き残ったんですよ。
すごいですよ。
だから、僕も、永倉新八っていうのは
すごく思い入れがあって。
今回の担当をするにあたり、
最初に面白いなって思ったのが、
永倉新八着用の、陣羽織でした。
京都の大丸で仕立てたって
書いてあって、
それがまた面白いんですけど。

永倉新八着用陣羽織 北海道開拓記念館蔵
ほぼ日 和歌が書いてありますね。
市川 文久3年の2月に江戸を発つときに、
万感の思いだったのでしょうね、
これからやるぞ、みたいな和歌です。
「武士乃節を尽くして
   厭まても貫く竹の
       心そ一筋」
「節を尽くす」というのは
当時の武士にとって、
とっても大事なことなんです。
こういう歌を詠んでること。
そして、これを着ながら、
ああ、鳥羽伏見を戦ったんだなぁ、
淀城のとこで戦ったんだなぁ、
八幡堤で戦ったんだなぁ、
戦って戦って戦って、
その永倉とともにこの陣羽織が
あったんだなぁ‥‥と思うと。
人が死んでも、こういうのが残り、
こうして今に伝えられている。
そんなふうに思ったんです。
展示が始まった今も、
やっぱりマイ・フェイバリットは
これなんです。

次回は、生き残ったひとびとの思いを
さらに詳しくお聞きします。


2004-05-20-THU

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