江戸が知りたい。
東京ってなんだ?!

駆け足で応挙の画家人生を。その2
フリーランスを通す。

ほぼ日 応挙が師事した狩野派には
遠近法があったんですか?
江里口 遠近法はあまりないですね。
18世紀中ごろに、
洋風画による遠近法が流行するようになると、
中には少し奥行きを表現しようっていう
意志は出てきてはいるようですけども‥‥。
まあ狩野派そのものは、
どちらかというとパターンができてますので。
松には必ず鶴がいて、それに岩を描くとか、
だいたいテーマは決まってるし、
描き方も決まってますので。
ほぼ日 ああ、確立した世界のところなんだけど、
技術はちゃんとあって、
それを勉強することができたんですね。
江里口 ええ。で、応挙自身も狩野派を習ったことで、
筆遣いは勉強になったって言っています。
ほぼ日 筆遣い“は”(笑)。
自分の才能の方が先だったんだ、きっと。
江里口 そうですね。ただ、元々狩野派は京都ですね。
それで東京に狩野探幽っていう人が
出て行って、そこから徳川幕府の
御用絵師になっていくんですけども、
狩野探幽については、
筆遣いとか、墨を使った濃淡の出し方は
すごくうまい、
ちゃんとうまい人はうまいって
認めてはいるんですね。
反狩野とかそういうことではなくって、
いいものはやっぱりちゃんと
評価するっていう、
素晴らしい判断力を持ってた方ですね。
ほぼ日 じゃあ、最初は奉公先から
狩野派の石田幽汀に師事した、と。
絵を習わせてもらったあとは?
その奉公先の仕事をしながらだったんですか?
眼鏡絵はずっと作りながら?
江里口 眼鏡絵は16、17歳ころから
描いたという記録もありますが、
17歳くらいで狩野派に学んだあと、
彼が27歳くいらいのときに
尾張屋で眼鏡絵を描いていますね。
「祇園祭山鉾図」や「賀茂競馬図」
「四条河原夕涼図」などは
応挙の絵が好評だったので
版画に起こして出版されたようです。

『祇園祭山鉾図』円山応挙 神戸市立博物館蔵


『賀茂競馬図』円山応挙 神戸市立博物館蔵


『四条河原夕涼図』円山応挙 神戸市立博物館蔵

江里口 やがてそこを出て、たぶんもうある程度
町絵師として独立したんだと
思うんですけども、また縁あって
世話になる人があらわれるんです。
ほぼ日 へーえ!
江里口 滋賀県園城寺(おんじょうじ)、
別名でいうと三井寺(みいでら)に
円満院っていうところがあって、
そこの門主っていう方が、
祐常っていうんですけどね。
ほぼ日 ユウジョウ?
江里口 祐常。私、初め
祐常っていうのが覚えられなくて、
ついジョウユウとか言ってしまったことが
あるんですけどね(笑)。
ほぼ日 ジョウユウは違う宗教の人です(笑)。
祐常さんっていうお坊さんがいたんですね。
江里口 お坊さんなんですけども、
この人が当時の皇后の弟にも当たるかたで。
ほぼ日 はあ、やんごとなきお方だったんですね。
江里口 そうだったんですね。
桜町天皇の皇后が
祐常のお姉さん。
父親は左右大臣、関白を歴任した
やっぱりいいおうちのかた。
その人にすごくかわいがられたんです。
祐常と応挙の交流は、
初めは祐常が応挙に絵を習ったのが
きっかけじゃないかって
言われてるんですね。
ほぼ日 応挙が先生だったんですね。
ふたりの出会いはいつごろですか?
江里口 応挙が33歳くらいのときですね。
それがだんだん応挙の絵の力が
すばらしいっていうことで、
祐常から絵を頼んだり。
この方もすごく教養のある人で、
もちろん自分で描くだけじゃなくて、
やっぱり当時もそろそろ絵というものに、
博物学とかそういうのも
入ってきた時期で。
ほぼ日 はいはい。まさしく平賀源内の
博覧会の時代が、ここですよね。
江里口 そうですね。実証的に何でも物を見たり
証明したりするっていう時代に
なっていたので。
この祐常さんも応挙に例えば
もっと写生図みたいなものを
描けっていうようなことを、
きっと、お願いしたんだと思います。
今回の展示の中に、
写生図がありますよね。
写生画の巻き物になっている。
これは祐常さんのために
描いたものと言われています。




『写生図鑑(甲巻)』円山応挙 重要文化財 株式会社千總蔵
ほぼ日 当時はこんなのが流行していたと
いうことですよね。
全国の殿様が、絵師に描かせていた。
ブームですよね。
江里口 そうですね。
ただやっぱり応挙はすごいですよね。
リアルで。
ほぼ日 すごいですよね。
源内の時に展示されていた
松平頼恭のまとめたもの
とか
すごかったんですけど、
応挙は、そのレベルとは違うというか、
芸術作品としてすごいですよね。
江里口 応挙の作品だとさらに、
これはいつ写したっていうことが‥‥
ほぼ日 描いてあるんですか?
江里口 ええ。10月下旬とか、これは冬に写したとか。
多分季節も入れてますね。
これがまたのちのち自分で
絵を描く時の参考になったんですね。

『写生図』(部分)円山応挙 東京国立博物館蔵
ほぼ日 応挙は仕事の依頼として
こういうことをやったわけなんでしょうけど、
全部あとで生きてくるんですよね。
江里口 ええ、生きてきますよね。
仕事としてだけではなく、
相当スケッチをとったりしてたらしいんで、
勉強家でもあったんでしょうね。
ほぼ日 でしょうね。
円山応挙というひとは、
天賦の才能だけではない、
縁や運が強いだけではない、
努力家っていう感じがしますよね。
江里口 祐常さんっていう方は応挙のことを
お抱え絵師みたいにしたかったらしいんですが
本人は絶対お抱え絵師には
ならないっていうことで。
ほぼ日 本人の意思が?
江里口 ええ。やっぱりお抱えっていうのは嫌で、
自分は自由でありたいっていうことらしくて。
お抱え的、ではあったんですけども、
専属というわけではなかったようです。
ほぼ日 仕事だけを考えたら、
お抱えの方が楽だったのかもしれないのに。
これはいまのひとと同じですね。
企業にいるか、独立するか。
会社にいたら給料がもらえて楽だけど
それは嫌だ、と。じゃあ、応挙は、
フリーランスとして仕事の依頼を受けて
制作して、お金をいただいて
暮らしを立てていたんですね。
江里口 ええ。祐常さんとの関わりのなかで
他のお寺を紹介されたりとか。
ほぼ日 立場は?
江里口 町絵師ですよね。
ほぼ日 町絵師はどういう位置に
なるんですか? 町人?
江里口 町人だと思うんですよ。
ただ応挙は不思議と刀を差してます。
ほぼ日 差してますよね、肖像画でも。
なぜ画家が刀を差してるのかなあと
思ったんですよ。わざとよく描いたのかな?

『円山応挙像』(部分)山跡鶴嶺 個人蔵

江里口 当時のことですから、
わざとよく描くってことは
とても許されないことでしょうね。
おそらく、お母さんが武家の出っていうのも
あったんだと思いますが。
ほぼ日 なるほどね。
江里口 地位的にはお抱え絵師と同じような立場で、
御所の絵も描いたりしていますね。
御所に参内して、襖絵を描いてますからね。
お抱え絵師の上の御用絵師くらいの
格ではあったということなので、
多分実際は刀を持つことを
許されていたんじゃないかと思います。
ほぼ日 なるほど。
祐常との蜜月は
応挙が30代のことですよね。
応挙の落款を使い始めるのが、
彼が34歳の時ですね。
江里口 そうですね。
ほぼ日 30代でこういう立場になるっていうのは
当時は早かったんですか、遅かったんですか?
江里口 早い方なんじゃないかと思いますよ。
ほぼ日 早い方なんだ、これで。
この方はけっこう長生きなんですよね、
63歳まで健在で。
いまより平均寿命が短いことを考えると
30代って結構なトシなのかなと
思ったりしたんですけど。
こういう世界では
早い方なのかもしれませんね。

今回はここまでです。
次回は「応挙はかわいいものが好きだった?」
というお話です!


2004-03-01-MON

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