Drama
長谷部浩の
「劇場で死にたい」

番外編
編集部註:今回は、番外編のその2です。
その1を読んでない方は、そちらから
お読みください。

生きることの感触
The Scene of Being Alive
平田オリザ、坂手洋二、永井愛、鈴江俊郎、
マキノノゾミ、鐘下辰男の劇作をめぐって


第2章

「演劇企画集団The・ガジラ」(87年創立)を主宰する
鐘下辰男は、人間がリアルな感触を取り戻す場として、
戦争という極限状況を頻繁に取り上げる劇作家である。
この巻に収録された『寒花』(初演・97年、
以下、作品名の後に初演年を示す)は、
1910年(明治43年)の旅順監獄を舞台にしている。
前年の10月、ハルビン駅頭で前監督統監、
元首相の伊藤博文を暗殺した朝鮮の独立運動家、
安重根(アンチュウグン)の旅順監獄、
収監から処刑までを描いている。
フィリピンのジャングルで飢餓を経験した
ふたりの戦後をたどる『カストリ・エレジー』(94年)、
大戦中の細菌兵器を取り上げた『ベクター』(96年)、
戦時捕虜の記憶に囚われた人々を見据えた
『PW PRISONER OF WAR』(97年)を考えあわせると、
戦争の中でむきだしになる人間の欲望について、
その醜悪な部分から目をそらさぬ作家の意志が読みとれる。
演劇にひきつけていえば、戦争を経験した世代の
井上ひさし、斎藤憐、佐藤信、宮本研らを除いて、
第二次世界大戦を題材にする戯曲は、70年代以降、
東京の演劇シーンで大きく取り上げられることがなかった。
戦後生まれの書き手の多くは、
在日韓国人二世として生まれたつかこうへいを例外として、
現実にあった過去の戦争を題材にとって
戯曲を書こうとは試みなかったのである。
鐘下じしんは、1964年生まれであり、戦争体験はない。
鐘下の劇作には、戦後民主主義教育が、
第二次世界大戦を日本の犯罪であり愚行としながらも、
そこで起きた人間のありのままの姿を
隠蔽してきたことへのアンチテーゼがある。
『カストリ・エレジー』(論創社・98年)の
後記のなかで、鐘下は、次のように書いている。

あと10年もすれば、確実に戦争を題材とした、
または戦争に関係した芝居は上演できなくなるだろうと
予感している(太平洋戦争に限らず)。
それは偏に、苛酷な戦いを経てきたであろう
劇中の登場人物達が持つ経験に、
実際の俳優達の身体性が追いつかなくなって
きているからである。

鐘下があえて「俳優達の身体性」について言及するのは、
若い世代の日本人が備える体格そのものが
変わってきているからだ。
しかも、その精神性からは、
歴史の記憶が抜け落ちてしまっている。
戦争の記憶が劇作家だけではなく、
俳優の身体からも失われていくことへの怖れがある。
彼が戦争にこだわるのは、戦後民主主義が
よりどころとしてきたヒューマニズムの視点からではない。
戦争の悲惨さを訴え、平和の誓いを繰り返すだけでは、
人間存在は描ききれない。
オウム事件、阪神大震災以降の社会は、
戦争の混乱期と変わらない。
市民社会の常識から逸脱しようとする者を、
すべて狂気のレッテルを貼って圧殺しようとするのは、
私たちの恐怖と不安の反映ではないかと
鐘下の劇作は語っている。

一方、坂手洋二は、ジャーナリスティックな切り口で
社会批判を持続してきた劇作家である。
80年代の小劇場演劇の多くが、
核の夢想に遊んでいたのに対して、
坂手が81年に参加した山崎哲の「転位・21」は、
そのスタンスを異にしていた。
金属バットによって両親を殺害した事件を取り上げた
『子供の領分』(83年)や、
子供社会内部の虐待によって自殺に追い込まれた
少年を描いた『エリアンの手記』(86年)など、
犯罪フィールドノートと題した作品を、
現実の事件から時をおかず舞台に乗せていた。
坂手はそれにならって、
83年に自らの集団「燐光群」を設立。
大韓航空機爆破事件を扱った
『トーキョー裁判』(88年)、
自民党本部放火事件を取り上げた『危険な話』(88年)を
ともに裁判劇の形式で発表。
レズビアンが自己のセクシュアリティのありかたを
告白する『カムアウト』(89年)、
東京のゴミ問題を扱った『ブレスレス』(90年、
第15回岸田戯曲賞受賞)で一躍注目を浴びるが、
彼にとってこうした問題は、
単なる題材・素材にとどまらない。
みずからの演劇について問いつめ、
ついには生きることの感触を取り戻すための方法であった。
坂手は、『ブレスレス カムアウト』(而立書房 91年)の
あとがきにこう書きつけている。

囚われた存在という意味でいえば、
演劇が演劇であることをあらかじめ許されているかの如く
振る舞う者は、ままある世界によって措定された、
システムの補完物としての「演劇」を生きさせているに
すぎないのではないかということになる。
私たちがそうしたトートロジーの構図に
立ち向かわねばならないとしたら、
演劇という行為もまた、
れっきとした「カムアウト」でなければならない。
つまり「カムアウト」することによって
本人が内面の制度を解き放ち、
新たに自己を「誕生」させるという構造が、
今、かろうじて演劇的だと思われる
ヴィジョンに重なってくるように思われるのだ。

ここには演劇によってファンタジーを紡ぎ出すのではなく、
生活者としてリアルな現実のありかたを
根本から問い直していこうとする
坂手の決意がこめられている。
90年代にさしかかって、この劇作家の関心は、
日本の近代へと向けられていく。
この巻に収められた『くじらの墓標』(93年)は、
商業捕鯨の禁止によって、
生活と文化的根拠を失った漁民の兄弟を描いている。
日本では江戸時代から紀州(肥前、土佐)などの沿岸で、
多数の勢子舟により鯨を網に追い込み、
手銛(てもり)で捕殺し、海岸で解体する
小型捕鯨が行われてきた。
しかし、反捕鯨国が年々増加しIWC(国際捕鯨委員会)は
82年、商業捕鯨を全面禁止。
日本の南氷洋捕鯨は87年に、沿岸捕鯨も88年に
その幕を閉じた歴史をこの戯曲は踏まえている。
『くじらの墓標』の冒頭、自殺する動物として、
人間と鯨をあげている。
坂手は、鯨資源保護運動の是非を問うのではなく、
高度資本主義が圧殺していく人間と鯨の悲鳴を、
ともにすくい上げようと試みたのである。
この作品は、88年、ロンドンで英国の
スタッフ・キャストにより上演された。
また、94年、96年に欧州ツアーを行った
『神々の国の首都』(93年)は、
日本の文化、風土を愛して、1895年帰化し
小泉八雲を名乗ったギリシア生れの英国人
ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)の
松江時代を描いた作品である。
彼の代表作に英文で発表された『怪談』がある。
坂手はハーンの作品を背景に、
日本の近代が西欧化の名のもとに、
消し去っていった幽霊=死者をよみがえらせようとする。
ハーンを取り上げた連作は、近代小説を代表する文豪、
夏目漱石をからませた『漱石とヘルン』(97年)で
4作目を数える。
アメリカ軍の基地が今も残る沖縄問題を取り上げた近作、
『沖縄ミルクプラントの最后』(98年)まで、
坂手洋二の仕事は一貫して、
近代から現代へと至る歴史の流れを射程に入れ、
社会によって踏みにじられる個を
いとおしむように見つめている。

(つづく)

1999-05-26-WED

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