Drama
長谷部浩の
「劇場で死にたい」

演劇評論という仕事(その3)

糸井重里さま

今日は一日、久保田万太郎と、
安部公房の戯曲を読んでいました。
(うろんな組み合わせですが)
それとちょっとした紹介文を書き、アンケートに答え、
送られてきたゲラを返したら、あっという間に深夜です。
お酒を飲むのを止めたので、
よっぽど時間に余裕が出来るかと思ったら、
案外、仕事ははかどらないものですね。
糸井さんは、釣りをはじめる前と後では、
時間の流れが変わりましたか?

さて、第三回。

「批評は芝居の批判をするべきか」。です。
実はぼくはほとんど批判らしきことを書いたことがないんです。
「それでも批評家なの?」といわれそうですが、
芝居のよしあし、俳優の演技の出来不出来を、
活字にすることには、それほど関心が持てない。
ひとつには、「読者にこの芝居を見るべきか、
それとも他のことをしたほうがましか」
観劇にいくためのそんな価値判断を、
提供しなければならない「新聞劇評」を、
ほとんどやったことがないからかもしれません。

雑誌媒体は、楽日が終わってから、
ほぼ1カ月後に書店に並びますから、
価値判断をしても、それほど意味はない。
それならば、私たちが毎日を送っているこの現実と芝居が
どう結びつくかを考えてみたいんです。
こう言い換えた方がいいかも知れません。
芝居の中に、私たちの「もやもやしていて、
つかまえどころのない現実」の答えを探しに劇場にいき、
「こんなこと、気がつきました」
と報告するのが、舞台を歴史のなかに組み入れる
批評家の仕事だと思ってきました。

ですから、勢い、芝居のディテイル
(たとえば前回ちょっと話した「舞台の小道具」など)に、
象徴的な意味を読みとったり、
主人公の運命に、集団の無意識を探ったり、
創作の方法に、時代の変わり目を予感したり、
することになります。

「この芝居がおもしろいか、おもしろくないか」は、
観客のだれもが5分もあれば、わかってしまうでしょう。
それを私が1カ月後に書いても、
別に、だあれも読みたくないのではと、つい思ってしまいます。
ならば、批評じたいを、読み物として、ひとりだちさせたい。
芝居を見なかった人も、
「先月の芝居は、こんなふうだったのね」
と確かめるために批評があるのでは、残念。
読んで「あ、私たちの今ってこんなだったんだ」と、
流されていく毎日が、新鮮にみえるきっかけになれば
うれしいと書いてきました。

ま、いうのはかんたんですが、書くのはむずかしい。
「へー、これがそうなの」
とつっこまれると困るのですが。

「批評という仕事」については、
これからもお話しする機会があると思います。
そろそろ前置きは終えて、芝居のあれこれについて
書き始めましょうか。

その前にちょっと寄り道して、
「名前の不思議」が気になるので、
次はそんなことをお手紙するやもしれませぬ。

軽い薄手のコートが好きなんですが、
それではふるえる季節が間近なようです。
湖上はさぞ冷えるのでしょうね?

平静十年十一月十四日
長谷部浩

伝言板
遊◎機械/全自動シアター「アラカルト」
(青山円形劇場)
を楽しみにしているみなさんへ

パンフレットに原稿を頼まれたので、
調子に乗って、24日に、
ポスト・パフォーマンス・トークを
やりませんかと提案してしまいました。
もし、実現したら「ほぼ日」でも
お知らせします。

 

1998-11-21-SAT

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