ITOI
ダーリンコラム

<不信の荒野>

ぼくらは、どんなにひねくれものであっても、
無数の「信」を前提にして毎日を生きている。

朝の時間にセットしためざまし時計は、
その時刻に鳴ると信じられている。
歯を磨くときにも、
チューブからしぼり出す歯磨きペーストに
寝ているうちに誰かが毒を入れてないと信じて磨く。
お湯でも沸かすかとガスの栓を開けたら、
ガスがでると信じている。
水道の蛇口をひねれば、水がでることも信じている。
むろん、そこには毒は入っていないと信じている。
トイレでひとつ気張ってみても、
そいつが無事に流れて消えてくれると信じている。
流れないと思ったら、息んだりはしないだろう。

めざめて数分の間だけでも、
数えれば、無数の「信」がある。
家族や他人と暮らしている人なら、
そこに同居している人間が、刃物を持って襲ってはこないと、
信じているだろうことも、付け加えましょう。

泥棒に入られたときにでも、
「信」を少しでも多く残しておきたいと、考える。
金なら持っていっていいから、命だけは取るな、とか、
自分の命まではあきらめるから子供の命だけはとか、
どの程度まで信じていいものかについて、
瞬時に判断して、心の中にある「信」の貯金を
できるだけ減らさないようにしたがる。

「何も信じられない」と誰かに向かって訴える人は、
相手がその言葉を聞いてくれていることを、
信じているのかもしれない。

ぼくらは、無数の「信」を前提にして生きている。

なにもかもを信じていて、それがまったく覆されずに
生きていけるなら、それはとても贅沢なことだ。
赤ん坊のときに、たいていの人間は、
その時代を過ごしている。

ところがまた、たいていの人間の場合には、
信じられないことにぶつかり、
「信」が無限大でないことを知り、そして、
「不信」を前提にせねばならないことの多さを学ぶ。
それが成熟するということなのだろうし、
いわゆる大人になるということだと思う。

「汚れちまったかなしみ」は、
いつまでもこどもでいられないという、さみしさであり、
「信」と別れなければならない人間の悲しさだ。

「信」と別れて生きていくことが、
イヤなことだったり悲しいことだったりばかりなら、
誰も大人になることなんかしないと思うが、
わりあいに大人になる人が多いのは、
大人になることには、
それなりの楽しみがあるのかもしれない。
うん。たしかに、あると言えばあるように思う。

「信」の分量が意外に少ないことを知った大人は、
それでも生きていくために、武器を獲得していく。
それは肉体的な強さだったり、
知識や知恵だったり、
自分以外の人間とのチームだったりする。
『論語』のなかで孔子様は、
「先生はどうして
そんなにいろいろ知っていらっしゃるんですか?」
と弟子にきかれて、
「育ちがよくないからなんじゃないの」と答える。
「信」をたっぷり与えられなかったから、
不信のなかで生きるための
知が必要だったということなんだろうなぁ。
水の足りない砂漠にいる生き物が、
水を獲得する方法を憶えるみたいなことかな。

「信」がたっぷりある社会ほど豊かなんだと言える。
それは、「いわゆる貧しさ」と対比されるような
「いわゆる豊かさ」とイコールではなさそうだが、
貧しさが争いを増やして「不信」を生み出す
ということもおおいにあるだろう。

少ない水でも、ひとりひとりが渇かない程度に
分け合えるものなら、豊かに生きているとも言える。
ぼくが落語の世界に憧れるのは、
そういう感覚の人々がそこにいるからだと思う。

「信」の輪を断ち切るような行為が、
ひんぱんに報道されると、
いままでたくさんの「信」を前提に生きてきた人は、
そのまま生きていくことができないつらさに、
慌てふためくしかなくなっちゃうわけだ。

仕事してりゃ、飛行機がつっこむかも知れない、
郵便には菌がついているかもしれない。
牛食えば、わけのわからない病気になるかもしれない。
疑わなくてもよかった場面で、
いちいち疑ったり対処したりして、
物理的にも、精神的にも、
いままでになかったコストをかけなきゃならなくなる。
「信」が減り「不信」が増える。
いろんな場面で赤ん坊でいられた状態から、
大人にならざるを得ないことが増えてくる。

そうすると、情報の処理オーバーを起こすんだね。
それが、パニックってやつだろう。
でも、それこそが「不信の世界」からの
攻撃の正体だと思うのだ。
「信」のつながりを
ずたずたに断ち切り切り裂くことが、
可能だと思うからこそ、テロルの動機がある。
脅えたり怖がったり、すればするほど、
「不信」という病原菌がばらまかれ、
あらゆるコストが急騰し、社会が枯れていく。
自分が、その「悪運」をつかむと思いながら
みんなが生きていたら、世界は枯れ果てる。

あんまりいいたとえじゃないのかも知れないけれど、
交通事故で命を落とす人の数は、
ものすごいはずだ。
しかし、その可能性はあると知りつつ、
ぼくらはクルマを運転し、
クルマの走る場所に出かけている。

ひそひそと身に降りかかる危険について
自分こそが被害にあうかのように語り合うよりも、
失いたくない「信」を守り続けることこそが、
ぼくらの防衛なのではないかと思っている。

爆弾より、生物兵器より、
効果のある攻撃は「不信」の連鎖なのだと思う。
強迫的に記事が売れるからと、
「不信」の拡声器のような役割をしている
一部のマスコミや評論家も、
テロ幇助してるとも言えるよなぁ。
それとも、大人は不信の中で輝くとでも言うのかな?



2001-11-05-MON

BACK
戻る