ITOI
ダーリンコラム

<妾宅のキレイ>

西川勢津子さんと、婦人公論の座談会でご一緒した。
『捨てる技術』の辰巳渚さんと、三人だったのだけれど、
ぼくと辰巳さんが、西川さんに取材しているような時間が
ずいぶんたくさんあったような気がしている。

西川さんは、もともと科学者だ。
科学者としての興味から、
掃除とか「おばあちゃんの知恵」とか、
生活の科学へと目を向けていった人なのだ。
だから、インターネット検索しての
最新最高の掃除のシステムとか掃除用品とかを調べたり、
海外の先端的なものについても、たいへんに詳しい。
とにかく、知りたいと思ったら、
靴磨きのおじさんに弟子入りをしたり、
ジェット機の掃除をさせてもらったり、と、
やることが普通じゃない。
いまでも、その好奇心の輝きがまったく衰えてないのだ。
またまたぼくの好きなかっこいい年上を見つけた思いだ。

で、西川さんに聞いた、ちょっといい話。
「いちばん、掃除とか行き届いている家って、
どんな人の家だと思いますか?」
皆さまも、少しお考えくださいませ。

・・・・・・いいですか?

「それはね、お妾さんとか、
二号さんとか言われる人の家なんですよ。
それは、もう、だいたい掃除が行き届いて
キレイにすんでらっしゃいますね」
なるほどなぁ。
わかるような気がします。
「だいたい、普通の家庭というのは、
そんなにキレイに暮らしているものではないんです。
お手伝いさんがいたりする、
昔の言い方での奥さまは別にして、
一般家庭というのは、
そんなにキレイに片づいてないんですね」
ああ、そういうものなんですか、とぼくは思う。
テレビドラマの家庭とか、キレイだけれど、
あれはセットですからねぇ。
よその家がどれくらい片づいているか、なんて、
客としてお邪魔したんじゃ、
ほんとのところはわからないわけで、
それぞれ、自分の家については、
「汚いなぁ」と心の中で思っているのかもしれないね。
性生活と同じで、よそと比べる方法はないですからね。
なるほどねぇ、と思いましたよ。

「じゃ、逆にいちばん汚いのは、
どういう家庭だと思いますか?」
これは、また、簡単そうでむつかしい質問。
もちろん、ぼくは答えられなかった。

「高学歴の妻がいる家庭は、基本的には
掃除とか、片づけとかできていないことが多いですね」
例外ももちろんあるのでしょうが、
そういう傾向があるという。

ホームドラマの脚本家や演出家だったら、
こういう西川さんみたいな人に取材したほうがいいよね。
ずいぶんリアリティがちがうと思うよ、
これを知っているだけで。

こういう話のなかで、そのお妾さんの家ってもののことを、
ちょっと、ぼくは考えたくなった。
お妾さんというのは、別のところに
ほんとうの生活基盤を置いているはずの男が、
「生活」とか「日常」から離れて、
いわば「夢」を見に来る場所のホステスなのだろう。
そういう意味では、旅館と同じようなところだ。
着物や服は着せてくれる、
好みの食べ物をほどよく用意してくれる。
甘えたければ甘えさせてくれる。
責任とか、威厳とか、
ポジションにつきまとう演技や義務から解放されるために、
きっと昔の権力のある男たちは、
お妾さんという「夢の別荘の管理人」を置いたのだろう。
想像ですけどね、若輩者であるぼくの。

いっぽう、妻という立場の人たちは、
掃除が行き届いていないからといって、
共同生活者の夫が簡単に逃げ出すことはない、
そういう自信と、お墨付き(籍)を持っている。
西川さんも正直に言ってましたが、
「誰だって、掃除が好きなんて人はいないですよ」
ってことだから、後回しになっちゃう。
特に高学歴の妻だったら、
後回しにするだけの論理を組み立てるくらい
朝飯前だろうから、どんどん後回しになっていくのだろう。
こっちも、想像ですけどね、若輩者であるぼくの。

ほんとは、こんな駄じゃべりで、
福岡のホテルで書く「ダーリンコラム」を
終わりにしてもよかったのだけれど、
続きが書きたくなったのよ。

掃除が行き届いているお妾さんと、ダンナが、
もし、籍を入れて「共同生活者」になったら
どうなるのだろうか、と。

これからは、さらに想像です。

ぼくが思うには、一方向として、
「一般の妻並みの掃除」になっていく、
というのがあるだろう。
つまり、お妾さんではなく「妻(籍あり)」なんだから、
「夢の別荘管理人」は辞職しているのだ。
仕事として、お客さんに来てもらうためのサービスは、
かえって他人行儀だし、
第一に、夫はお客さんなんかではなくなっているのだから。
こういう変化は、考えられる。

もう一方向。
こっちも、ちょっとおもしろい。
「掃除はきちっとするけれど、
掃除のためには、夫を邪魔にしさえする」というかたち。
掃除することのなかに、自分のアイデンティティを
確立してしまったので、それをしなくなると、
自分が無くなってしまうのではないか、と感じる。
しかし、それは、客が「たまに来る男」だったから、
できていたことなのだ。
散らかっている時があっても、見えない場所にいる男。
まずは、これが条件だったのだ。
仮の宿であり「別荘」であるからこそ増えない
生活の垢のような品々やゴミ。
そういうものを隠す場所や時間がなくなるのが、
共同生活をするということなのだ。
となれば、掃除のためには、夫を外に掃き出すくらいの
厳しい決意がなくては、
キレイに整理整頓され、掃除の行き届いた家は、
守りにくくなるだろうと思うのだ。

おもしろいなぁ、と、勝手な想像をしながら思う。
「生活と夢」「日常と非日常」「暮らしと旅」
そういった矛盾するふたつの場面を、
統合する方法なんて、きっとないんだろうなぁとも思う。

旅にあれば旅の空。
しかし、その空の下、かまどの煙。

じゃ、博多から、ひとまず送信しますね。
Are you happy?

2000-12-04-MON

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