ITOI
ダーリンコラム

<岩ごつごつの露天風呂>

夜中に露天風呂に入った。
いわゆる観光地らしい風情の温泉地でないもので、
夜になるとあたりは真っ暗で、
風があれば、風が梢にあたる音がするのだろうが、
まったくの無風状態で、細かい雨が降っていたけれど、
その雨音さえも耳に届かないような静寂であった。

って、何を気取っているのだ、オレよ。

夜中に温泉の露天風呂に入るというのは、
なかなか気持のいいものなのだけれど、
これだけ静かで、自分以外に誰も起きていないと思うと、
いつもと違って
ちょっとわけのわからない恐怖感さえおぼえる。
都市で生活していると、怖いのは人間だけでしょうという、
ちょっと生意気なヒューマニズムに陥るのだけれど、
真っ暗闇で音もないという山奥にいると、
人間以外のなにやらへの畏れが、自然に湧きだしてくる。

薄明かりのなかに雨が落ちてくるのを見たり、
緑の濃い匂いをかぎながらお湯につかっていると、
いつも刺激されないところが感応して、
精神的なストレッチになるみたいだ。

こういう山奥で、こんなふうに落ちつく自分は、
やはり本性は山の猿なのだろうなぁ、とか。
これまた猿知恵をめぐらせていたりして。

岩風呂というのは、岩で湯船を造っているので、
かたちに法則性がない。
手足を動かす時に、なにも心の準備をせずにいると、
からだのあちこちをぶつけたり擦りむいたりしそうになる。
だからといって、ゆるゆると岩にぶつからないように
からだを動かしているというわけでもない。
ゆっくりめに、「ぶつかることもありうる」と
思っていれば、それだけで痛い目に合うこともない。

いつも、都市の生活のなかで入浴するときには、
たいていは、矩形の浴槽を使っている。
まっすぐなところは、まっすぐに決まっているし、
四隅だけが角になっているということも知っている。
だから、まったく不用意、無防備な動きをしても
どこかにぶつかるということがない。

自然のなかで最も不自然なのは直線である、と聞くが、
ぼくらの日常は、その不自然な直線ばかりに囲まれている。
ある一点の、前後が左右が上下が、予測できるかたちが、
生活のほとんどの景色である。
そのことは目にも動作にも、余計なストレスをかけない。
廊下を歩くのに、一歩先が見えなくても
なにも差し支えはない。
さらに、人間がぶつかる可能性のある部分には、
ぶつかってもいいように丸みのあるデザインが
施されていたりもする。
人間の動きが制限されないように、
まっすぐや、直角や、正円などでできあがった世界に、
都会に人々は暮らしているわけだ。

そういう場所で、毎日を過ごしていて、
そういう都会に慣れてしまっていたからこそ、
ぼくは岩風呂の不定形なごつごつに
気が付いてしまったわけだ。
人間にもともと備わっていたごつごつしたものに対する
原始的な感覚が、都市生活を続けている人間には、
そうとう失われているのではないだろうか。
つるつるな世界でないと生きられないくらいまでに、
感覚が甘やかされているんだろうな。
たまには、ごつごつにぶつからないとな、
と、役にも立たないことを思った。

もし、ぼくが普段、
自然なごつごつに取り囲まれて生活をしていたら、
ぼくはきっと、ここに直線をつくりたくなったろうし、
不定形をなんとか整理して、「暮らしやすい」環境を
つくりたいと願っていたことだろう。

そんなことを考えながら浅めに温泉につかっていたら、
肩のあたりが冷えてきた。
寒くなったなぁ、もう冬だよ。
そういえば、都市の生活空間では、
温度も「定型」になっているんだよなぁ。
低くて20度、高くて28度くらいの設定で、
どんな季節でも一定の温度で暮らしている。

温度に対しても、からだのほうを対応させて
分からず屋の環境との関係を調整するような機能は、
すっかり失われているにちがいない。

何かを感じたり、見分けたり、かぎ分けたり聞き分けたり
というような能力が、きっと、
つるつるでどんよりした都会暮らしを
している人間たちからは、どんどん失われているのだろう。

となると、食べ物の味も、音楽も、メディアの画面も、
どんどん濃い味の刺激の強いものになっていくだろう。
いや、もうとっくになっているわ。
女たちの香水がきつくなっていったり、
肌や性徴の露出がおおくなっていくことも、
感じる能力の衰弱から類推したら、当然起こることだ。

ってことは、原始のままの感受性をキープしたままで、
これからの強刺激社会で生きる人間が、
いちばんお得ってことになるわけかぁ。
いや、刺激が強すぎて疲れるということも言えるなぁ。
ま、どっちでもいいか・・・

なんつーことを思いながら、
ずーっと温泉につかっていた山猿でありました。

2000-10-30-MON

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