ITOI
ダーリンコラム

<金を捨てる>

長っげぇぞう。でも、たぶんおもしろいと思う。

岸田秀先生ではないけれど、
あらゆるものは幻想なのである。
だって現にここにあるじゃないか、とか言っても、
幻想なのである。
これについては、書いているときりがないので、
ひとまず退散することにする。

(戻ってきて)

貨幣、つまり、お金というものは
幻想の最たるモノである。
これについても、いくらでも研究書もあるし、
学者もいるわけだから、
このこと自体を突っ込んだりはしないでおく。
またまた、ひとまず退散することにする。

(また戻ってきて)

ぼくの趣味、といっていいのだけれど、
「何がどのように幻想であるのかを考えること」
というのがある。
研究者にはならないけれど、
その「それは、まぼろしやんけ?!」という部分を、
見えるようにするのが、好きなのよ。

取るに足らぬものに、ひたすらに恐れ入っちゃうって、
人間を不自由にするじゃないっすか。

大会社の重役っていう人が、
どう偉いのかってことは、それなりに自分の判断で
決めることだと思うけれど、
「大会社」「重役」という
ふたつのキイワードで、もうすでに
「偉い」と思う準備をしている人だって多いでしょう。

若い時の男の子ってのは、
ひたすらに「やりたい」と思っているけれど、
その「やりたい」の正体がつかめないんだなぁ。
さみしいのか、優しくされたいのか、
優しくしたいのか、お前も一丁前だと思われたいのか、
ただその辺りがむずむずするのか、
なんか溜まっていて苦しいのか、
柔らかいものにつかまりたいのか・・・
なにがなんだかわからないのである。
それがわからないが故に、通じやすい言葉で、
「溜まっている」とか、まとめてしまって
わかったような気になりたいわけだよ。

この「溜まってる思想」ってのも、
ほんとうは幻想だと思う。
そういうふうに人間は出来てないのだと、ぼくは思う。
溜まってる思想が、慰安婦だとか、
性の防波堤だとかいう、
「機械的な処理」という発想の源になってきた。
実に、工業社会型のイデオロギーだったのではないかと、
この年になって、ぼくはにらんでいる。
むずむずすることと、
さみしくてしょうがないこと、
不安を解消したいこと、
生物としてわけわからないままに番いたいということは、
実は、まったく別のことなのである。

おっと、性の幻想は、また別のテーマなのに、
すっかり寄り道してしまった。

金の、貨幣の幻想について「感じる」ことを
書いてみたかったのだった。

ぼくは、いままでに何度か、
数十人を相手の「教室」の先生役をやったことがある。
そこで、また何度か、
法律に触れるのではないかと思われる授業をやった。

「自分の100円玉を出してください」
から、スタートする。
「それを、いまから15分時間をあげますから、
教室の外に出て、捨ててきてください」
これだけだ。

ぼくはしばらく、教室で待っているだけだ。

しばらくすると、生徒さんたちが帰ってくる。
もちろん悪いことなんだろうから、
課題を拒否する人もいる。それはしょうがない。
「お金を捨てるなんて、絶対にイケナイことだから」
もちろん、そのとおりである。
ただ、その100円で他のモノを買って、
それを捨てることならできるらしい。
普通に生きていれば
いくらでも無駄遣いしたり捨てたりして
生活しているものだから。
でも、お金となると捨てられないのだ。

全員が捨てて帰ってきたところで、
ひとりひとりの感想を聞く。

・怖かった。
・道に向かって思いっきり投げたとき、
 なんだかスカッとした
・どきどきした。いまでも落ちつかない。
・気が遠くなった。
・おもしろかった。課題でなくやってみたかった。
・どうして、なんでこんなにと思った。
・投げるときの腕の感覚が忘れられない。

そんなふうなことを、ひとりずつしゃべっていく。
たった100円、なのだ。
「そうは言っても、お前にとっての100円は小さくても、
わしにはでかいんじゃぁあああ」という反論があるのは、
100も承知である。
そういう人も、いる。
でも、落ちついて考えてくれ。
100円がたった100円であることを、
まずは認めたほうがいい。
そういう時代に、ぼくらは生きているのだ。

たった100円なのに、
さらに言えば、100円であると日本国民が認めている
ニッケルかなんかで出来たコインなのに、
なんであんなに、捨てるとなるとどきどきするのだ?
犯罪かもしれないから?
それもあるかもしれない。
捨てるということを意思をもってしたことがないから?
そういうこともあるかもしれない。

説明がつくのは理屈の部分だけだ。
100円が100円として通用する世界に、
ぼくらは生きているのだ。
それを認めようとか認めないとかいうことを
考えてもイケナイくらいに、
あの円い金属片の幻想は固定化されているのだ。
その「みんなが認めた幻想の体系」が、
「捨てちゃうこともできる」と知ったとき、
価値観がガタガタと崩壊してしまうのだと思う。

これが、課題じゃなくて、100円でなく
例えば10000円だったとしたら、
その恐怖感は、もっと強くなっていたろうと思う。
「こんなもん、ただの紙切れじゃねぇか!」
というセリフがあったりするけれど、
その通りなのだ、ほんとうは。
「これは一万円という価値のある紙なのね」と、
国という立会人の前で約束した紙切れなのだ。
それを捨てるというのは、
さまざまなそういう仕組みの約束は、
実は約束にしか過ぎず、破ろうと思えば破れる約束なのだ。

一万円という約束の紙を捨てる。
簡単そうにも見えることだよ。
ぼくも、やったことはない。
ただ、そのことをして初めて得られる感覚を、
一万円の投資で得られるとしたら、
ある意味では高いものではないのかも知れないとも思う。
ぼくも、やってないんだけどね。

これは、お教室で、授業というかたちでやったけれど、
自分で思いついてやることは、たぶん、
誰も、一生なかったのではないだろうか。

ぼくは、学生の頃、数百円しか持ってない時に、
実はこの遊びを思いついた。
お堀の水が凍っていてさ、その表面に石を投げると、
ちゅんちゅんちゅいんちゅいんと、
きれいな音がして、滑っていくんだよ。
しばらく、それを楽しんでいたんだけれど、
そのうち、投げるための石がなくなっちゃったんだね。
でも、もっとやりたい。バカだから。
で、しかたなくポケットにあった50円玉を取り出して、
石のかわりに投げたのでしたー。
その時、やっぱり、すごい感覚があったんだよ。
あれは、50円じゃ安かったね。
その感じを、生徒諸君に味わっていただこうと、
悪い先生は思いついたわけですわ。

絶対に揺るがないと思われている価値観や、
真実に見えるような事柄も、
ぎりぎりまで裸にすることはできる。
「愛がありますよねぇ」みたいな言い方を、
ぼくが好まないのも、そういう理由があるからだ。
その愛ってのは、どういうものなんだ。
と、もっと裸にしたくなるイケナイ性格だから、
一般的に流通している言葉の意味っていうのが、
なんだかなぁと思っちゃうんだよね。
「使い方がよくないってことは、わかっているけど、
これでカンベンしてください」という意図があって
使われているのは、ぜんぜん平気なんですけどね。
『愛だろ、愛っ』なんてのは、
苦し紛れにその言葉を吐く心情が、
その後ろに隠れているから、
オッケーなんですけどね。

愛とか、性とか、金とか、
単体でもすっごい価値のあるものは、
ほんとに恐ろしいんだよなぁ。
価値あるに決まっていると思われているものほど、
一回、バラバラにしてみて考えなおしたいんだよね。
言葉のどんな魔法に、ぼくらはかかっているのか。
それが知りたいのさ。

あ、だけど、ぼくがなんでもバラバラにするのが好きな
冷たい人だと思われるのも、いやだよ。

ぼくのちょっと年上の人でさぁ、
いわゆる立場的には、とんでもなく高級な腕時計をしていて
自然に見える人なんだけどね、
30年前くらいのセイコーの普通の時計をしているんだよね。
それって、共働きだった奥さんの、
初月給で買ってくれたプレゼントなんだってさ。
これは、もう、うらやましいくらい最高の時計だよね。
それを「幻想ですよ、ただの古い時計ですよ」なんて、
ぼくは絶対に思わないよ。
だって、その幻想は、大事に育ててきた幻想で、
その幻想そのものが、もう買うことのできないものに
なっているんだものね。
死ぬときも、お棺のなかでその時計をしたまま
焼いて欲しいんだそうです。

ああ、こういう好きな話を書いていると、
ほんとに気持がいいや。
『リトルトゥリー』っていう、
かなり怪しい人が書いたらしい小説があるんだけどさ。
めるくまーる社ってとこから出ているんだけど、
その小説のなかに登場する一本のナイフの話が、
いいんだよー。

じゃ、また来週ね。
オレ、いま風邪気味で頭が痛かったんだけど、
治ってきたわ。

2000-10-16-MON

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