ITOI
ダーリンコラム

<単位のこと>


はい。
また今回も、思いつくままね。
論文とまちがえたりしないようにね。

では、まず先にくだらないことを言い終わらせておこう。
言い忘れちゃうともったいないからさ。

広告の仕事をやっていると、
男として普通に生活していたら知らないようなことを、
いろいろ学ばされる。
ブラジャーについても、もうかなり忘れちゃっているけど、
けっこう勉強したことがあった。
女性は当然知っているのだけれど、
案外男たちはブラジャーを知らない。
男性週刊誌やなんかのグラビアに、
B90台くらいのどっかーんなモデルが
いっくらでも登場しているもんだから、
世の中のバスト単位というものを誤解している。

ブラジャーのサイズは、
あのグラビアでよく見る数字をあてはめてはいけないのだ。
雑誌に掲載されているのは、
大きいほど商品価値があるという幻想をもとにして
記されているものだからそれでなくても大きいのだが、
基本的にトップで計測して最大値を発表しているのだ。
しかし、ブラジャーを買うときには、
トップでなくてアンダーを計測するのである。
だから、「90のC」なんてブラジャーを
着けている人がいたとしたら、
あばら周りが90センチっていうわけだから、
相当に巨大な、あるいは肥満な女性を意味する。
ぼくは、その仕事をやる前には、
そのことを知らなかったけれど、
他の男性諸君はどうなんだろうか。

さらに、ついでに言うのだけれど、
ブラジャーのあの、AカップBカップという単位は、
どういうもんなんだろう?
単位をして、非常に不便なのではないだろうか。
経験的に自分はAだのBだのと知っているから
それで不便は感じてませんと言われればそれまでだけど、
ぼくは、もっといい単位があると考えていた。
却下されることを覚悟しつつ、
ここに「捨て案」としてプレゼンテーションしてみたい。

◆カップ単位はやめて、ccにしてはどうだろう?
体積、容積の計測なのだから、
ccあるいはmlがよいのではないだろうか。

余談は、ここまでにしておきます。
たいした話じゃなかったですね、ほんま。

単位のことが言いたかったのだった。

単位とは、社会である。
社会というのもおおげさかもしれないけど、
自分と他人がいるせいで必要になるものである。

「これはでかい魚である」ということを、
何人もの人が言う時、
それぞれが別の「でかさ」を表現しているわけだ。
しかし、そこに重ささなり長さなり体積なりの
単位があれば、いちおう了解しあえる。

しかし、だからといって、
体長1メートルの魚をでかいと感じる人もいるし、
それをちっともでかくないと思う人だっていて、
そこでまた「でかい」という言葉について、
あるいは魚にとってでかいとはどのくらいかについて
などなどのことを、さらに
社会的に語り合っていくことになる。

ひとりで、「でかいな、この魚」と思っているだけで、
まったくそれについて語らなければ、
社会的なめんどくさい約束事から、かなり逃げられる。
社会というのは、めんどくさいものだ。

そうそう、「単位」だ。
単位というのは、つまり個人的なものではない。
国立公園やら、市民プールやら、法律やらと
同じように、みんなのものなのである。
「俺の1メートルは、このくらいにしてくれ」
というような勝手なことは許されないのである。
だから、そのかわり、単位は万人を納得させる
普遍的な価値を持つことになる。
(ほんとは価値そのものじゃないんだけどね)

学校で教えられる勉強をどのくらい
理解して記憶して応用できるか、ということについても、
「偏差値」という単位がある。
これも、ほんとうは価値そのものではないけれど、
価値の代役になっている。
さらには、その偏差値という単位で受験生だけでなく
学校の価値まで表現されていることになっている。

時間という単位も不思議なもので、
ゼンマイがほどけていく力を歯車に伝えたり、
水晶に電流をとおして探し出したりした
規則的なリズムをたよりにして、
ぼくらは時間を知るわけだけれど、
ほんとうは、そんなゼンマイやら水晶をもとにして
時間の流れをを感じているわけではない。
たのしければ、速く進むし、退屈なら遅く進む。
そして、これまた個人個人で、
その「進み」の感じ方は違っているのだ。
同じ映画を観ていた気の合う仲間が、
「短く感じたねぇ、あっという間だったよ」と
言い合っていたとしても、その短さはバラバラなのだ。

もっと言えば、単位のない世界もたくさんある。
「いい人」と言っても、どれくらいいい人かなどという
社会に通じる単位はない。
愛にも単位はないものだから、
映画などではよく「どれくらい愛してる?」という
質問に対する答え方が名セリフとして残ったりしている。
単位がないから、比喩を使うことが多いよね。
愛の単位がキログラムだったら、
「どれくらい愛してる?」
「300キロ以上、かなぁ、あいまいでゴメンよ」
なんてことになるのかね。
あ、週何回とかいう身も蓋もない単位を導入する方々も
いらっしゃるんだよな、この世界は。
単位って、不安を埋めたい人には、
ほんとに必要なものに思えるんだろうねぇ。

さて、長くなりすぎるので、
そろそろいちばん言いたかったことを書いておこう。

それは、単位のほうに自分や他人を合わせようとするって、
ほんとは無理なんじゃないのかよ、ってことだったんだ。

「何時間しか寝てないから」なんてことを意識して、
一日中不調を嘆いてるとか、あるじゃないですか。
偏差値の数字のちょっとしたちがいで、
価値の上下をつけ合っている関係とか、
体重計と毎日面談をしてはため息をつく暮らしとか、
なんか、よけいな苦労を自分から背負ってるんじゃないか、
と、そう思うんですよ。
これ、むろん、自分自身にも言ってるんですよ。

ぼく自身、そういう単位のほうに自分を合わせる傾向を
修正する方法があるんでして。
それは、単位があっても想像できないような、
とんでもないもののことを考えるってことです。
化石とか、見つめることもあるし、
そういうとんでもない昔のことを思うだけでもいい。
2億年とかいう単位で計られるているものが、
そこにあるっていうだけで、自由になるんだよ。
ロマンチック風ですけれど、
星を見たりするのも、実はいいんだよね。
遠すぎて、イメージできない場所にあるわけでしょ。

毎度のことですが、
こんなことしゃべりっぱなしにして、
「では、さらば」って書き方、
インターネットでなければやれないよなぁ。
今日も無駄話につきあってくださって、
ありがとうございました。

2000-07-31-MON

BACK
戻る