ITOI
ダーリンコラム

<飲みものは冷蔵庫で、信号の手前>

昔のおばさんは、紙ぶくろとか、菓子箱とか、
残りものの毛糸だとか、着古した服だとか、
チラシ広告だとか、錆びた釘だとか、
引き出物の飾り物だとか、穴の空いた鍋だとか、
捨てないで取っておいた。

ひとつは、それを取っておけるだけの場所があった、
ということが言える。
もうひとつは、「いつか何かの役に立つ」と
考えていたからとも言える。
そして、改めて必要になったときに、
買うのはもったいないと思ったから、かもしれない。

しかし、おそらく、一般的な「ほぼ日」読者の家には、
上に列挙したようなものは、置いてないだろうと思う。
取っておく理由が希薄になったから、というよりは、
それを置いておく場所がない。
そして、整理して場所をつくるためにかける手間ひまが
もったいない。
ということなのだろうと思う。

自分の生活を維持していくために、
あとどれだけのモノを追い出せるだろうか。
そのことを真剣に考えたら、
かなりの空間が生み出せるのではあるまいか。

タンス類などは、中に入れるものを少なくすれば
必要なくなるだろう。
本は、どんどん読み捨てにしていく。あるいは借りる。
CDやビデオなども、できるだけ買わない。
そのほかにもレンタルで間に合うものが、
けっこうありそうだ。
減らせば減らせるものは、想像以上に多そうだ。

家や部屋という個人の生活の場に、
ストックは、どんどん要らなくなっていくようだ。
冷蔵庫がなくても、近くにコンビニがあれば、
その店の冷蔵庫を、自分の部屋の冷蔵庫だと考える。
広い家に住んでいると思えば、
遠くの台所にビールやジュースを取りに行くようなものだ。

つまり、「町ごと自分のうち」だと考えてしまえば、
所有してすぐ近くにモノを置いておく意味はなくなる。

なにかに、似てないか?
自分のストックを限りなくゼロに近づけていって、
ネットワークを「自分の一部」と考えるというスタイル。

そうだ。
インターネットが、まさしくそれだった。
辞書が必要なときでも、ネットにつなぐ。
知識がほしいときも、ネットにつなぐ。
本棚は、ネットのなかにあって、
どんどん大きく増殖していく。
自分の、自分だけが触るような知識のストックはなくなり、
それは、ネットワークみんなのものとして共有される。

自分だと思っていたもののほとんどが、外部化される。
そして、自分に最後に何が必要なのか、
自分に最後に残ったものはなんなのかが、問われる。
どんどんどんどん、自分を外部化してしまい、
外部だと思っていたものを自分として考えるようになると、
ネットワークなしに自分がいるということが、
信じにくくなる。
仮にネットワークに故障が起こると、
たかがネットの故障にしかすぎないはずなのに、
裸になった自分は、ものすごい不安に襲われる。
コンビニの冷蔵庫に自分の飲みものが預けてあって、
それをお金という交換券で持って帰ってくるという
つもりで生活をしていたら、コンビニがつぶれちゃった、
なんてことと似ているかもしれない。
「部屋にはなんにもなかった!」と気づくのだ。

インターネット的に、世の中は必ずなっていくだろう。
しかし、からっぽの部屋に、
弱々しい裸の自分が震えて立っているということには、
ならないようにしたいものだと思う。

だからといって、昔のおばさんのように、
置き場所もないのにガラクタを取っておくつもりもない。

「じゃ、どうすればいいっていうんですか?」
「あなたの言ってることは矛盾してませんか?」
なんてことを、言ってくる人がいるかもしれない。
インターネットを通じて、ね。

答えなんか知らないよ。ほんとに。
ぼくだって、考え中の実験中だもの。
どのくらいのストックが、自分に必要なのかなんて、
そう簡単にはじき出せるものじゃない。
ネットワークのなかに、ぼくがいて、
ここまで書いたということは事実だけれど、
答えは、みんなそれぞれに考えるしかないと思う。
まだ、そういう時代がはじまって間も無いのだから、
わかっているような顔なんてできやしないんだ。

「飲みものは、冷蔵庫にあるよ。
 冷蔵庫は信号の手前。サンダルはいてっていいよ。
 あ、つぶれてるかもしれないから、
 ネットで調べてから行ったら?」

2001-06-04-MON

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