ITOI
ダーリンコラム

<縁の下に力持ちはいるのか?>

毎週一回書いている
この「ダーリンコラム」というページは、
生煮えでもいいから、自分がいちばん書きたくなったことを
いそいで書くことにしている。

だから、題材の選び方も一貫性がないし、
時によっては、
「おいおい、そこまでしか考えてないのか?」と、
自分でもつっこみたくなるようなことも書いている。
いちばん楽しいし苦しいのは、
「いままでの自分の考えが、どうも怪しいぞ」
というというようなことを書く時だ。

今回も、そういうパターンの典型だと思う。
どこからでも反論できるような、穴だらけの発言だ。
ある程度は、反論も想像できるし、
一部の人は、読んで怒り出すかもしれない。
でも、何か、次のことを考えるときのヒントに、
なるんじゃないかと思って、書き出してみる。

『縁の下の力持ち』という言葉を、ぼくは好きだった。
みんなが自分の力を精一杯見せようとしているときに、
気づかれなくてもいいから、と、
必要で大事なことをしっかりやっているような人を、
「縁の下の力持ち」と言うわけだ。
いかにも、美しい存在であると思う。
映画や小説のなかにも、
そういう存在が、しばしば登場していて、
「わかるよ、キミの気持は!!」と、ぼくら観客は
深く肯きつつホロリと泣いたりしているものだ。

それを、疑うことはなかった。

しかし、この頃、思うようになったのである。
もしかしたら、「縁の下の力持ち」って、
ほんとはどこにもいないんじゃないか??

まず、「誰にも気づかれないこと」ってのは、
縁の下の力持ちの目的ではない。
みんなのやりたくないことや、
忘れていること、目立たないことを、誇りをもってやる、
・・・そっちのほうは目的であるだろう。
えーと、つまり、
ほんとうの縁の下の力持ちは、
縁の下で力を出していることについて、
「気づかれたってかまわない」のだ。
どうしても気づかれたくない、
ということがあったとしたら、
それは本人独自の美意識や倫理の問題なのであって、
そのことを押し通すというのは、わがままである。
よっぽど本気で隠し通すということがない限り、
縁の下だけで力を出しているなんてことは無理だと思う。

次に、縁の下の力持ちというのは、
「みんなで情報を共有してさー」という時には、
迷惑な存在なのではないだろうか。
彼は、必要とあれば、嫌がられてでも自分の仕事を
他の仲間に理解してもらったほうがいいのではないか。
それに、「縁の下」の状況がみんなに理解されていたら、
チームの他のメンバーは、自信を持って活動できるだろう。
その意味で、縁の下の力持ちは、
困ったやり方をとっているということになる。
それに気づいた縁の下の力持ちくんなら、
「いま、ここんとこ、こうやったおいたから、
大丈夫だよ、安心しててくれ」と、縁の下から表に出て、
みんなに言ってくれるにちがいない。

さらに、ほんとうに縁の下なんてものが、
なにかをするときに、あるのだろうか?
いわゆるジミな仕事、目立ちにくい仕事、
というものはある。
人がやりたがらない仕事、というものもある。
だが、誰も気づかないような必要で大事な仕事なんて、
ほんとうにあるのだろうか?

野球マンガなんかだと、みんなが練習に集まる前に、
ボールを磨いたり、グラウンドを整備したり、
ユニフォームを洗濯したり、というようなことをやる人物が
「縁の下の力持ち」であるということで、よく登場する。
だけど、ここで、読者のみんなが
「そう、そう」と思ったろう?
ってことは、気づいているってことじゃないの、誰でも。
ま、心根の悪いヤツなら無視もするだろうけれど、
普通の人間なら、「あいつやってくれてるんだ」と
感謝するだろうし、自分もやらなきゃと思うだろう。

いわゆる一般の企業なんかでも、
花形の営業とかの仕事を支える仕事の人たちが、
いろんな部署にいっぱいいるだろうさ。
でも、それは、縁の下なんかじゃなく、
誰がどのくらい、どうやっているか、わかってるじゃん。
また、わかってないとしたら、それは、
その企業の仕事のやり方が、
動脈硬化を起こしてるってことだろうけどね。

派手な活動を「下支え」する仕事は、たくさんある。
だけど、それはそれで、「縁の下」じゃない。
もっと工夫できるだろうし、
もっと創造的な何かが生まれる可能性があるし、
瞬間瞬間では、いちばん表面に出てきている仕事
かもしれないのだと、ぼくは思う。

サッカーで言えば、中田選手の役割は、
縁の下の力持ちか? そうじゃないでしょう。
野球で、松井の前にいるランナーは縁の下の力持ちか?
バッティングピッチャーは、縁の下の力持ちか?
どれも、ちがうでしょう?
「役割」をまっとうするためには、
縁の下にいるわけにはいかない仕事なのだ。
ある意味で「専業主婦」だとか、
政治家の秘書とか、いかにも縁の下の力持ちの例に
あげられそうな人々だって、
その仕事を「主役」としてやっているはずだ。

そう考えて行くと、「縁の下の力持ち」という言葉が、
いまの世の中で、どんな役割を果たしているのか、
怪しく思えてくるのである。

「彼は縁の下の力持ちで、人の目につかないところで
非常によくやっているんですよ」というような時に、
この、言葉は主に使われているのではないだろうか。
マンガだったら、
「俺は、知ってるんです。
あいつは・・・・あいつは、みんなの練習が
終わった後に、ボールを磨いて・・・」ってなセリフ。

前者の発言は、その非常によくやっている仕事が、
他の人たちの目に、なぜ見えてなかったのか?
疑問ではないだろうか?
後者のマンガの発言者は、どうして、
「みんなもやろうよ」とか言わない?
もっと言えば、なんでお前は手伝わねぇんだよ?

縁の下の力持ちというイメージを、
ことさらに強調することで、
その組織の可能性を「現状でせいいっぱい」という
ムードにしてしまうことはないだろうか。
みんなのやりたがらないことをやる、のも、
ある意味では自分のポジションを守る戦略であるし、
新人の時には他にできることが少ないのだから、
そういう方向で他人に必要とされるようにするのも、
「作戦」のひとつだろう。
みんながみんな派手な賞賛を浴びやすい仕事に
群がったら、たしかにチームは壊れる。
だけど、そんなことは、現実にないと思わない?
『ガラスの仮面』の亜弓さんみたいな人ばっかり、
なんて組織はないよ、世の中に。

陰の努力とか、縁の下仕事なんて、
イチローでも、松井でも、みんな当然のようにやってる。
そうでなかったら、晴れ舞台で活躍できないんだから。
ぼくらは、知らず知らずのうちに、
誰かを「縁の下の力持ちなんです」とことさらに
強調することで、自分のルーティンワークへの甘えを
あいまいに許しているのではないだろうか。
「空飛ぶばかりが鳥じゃないですよ」という風に。
ちがうと思う、鳥は空飛んでなんぼじゃ。
エサを食ったり、卵をあたためたりするのを、
必要以上に大事なことだとか、言っちゃいけないんだ。

物語のなかに出てきて、ぼくらをホロリとさせるような
「縁の下の力持ち」なんか、現実の世界にはいない。
目立ちにくい仕事でも、おなじチームのメンバーに、
「どんなことを、どう考えて、どうやっているか」
ちゃんと情報共有させるようにしなかったら、
これからは、ダメなんだと思う。

あらゆる人のいる場所は、縁の下なんかじゃない。

2001-02-05-MON

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