ITOI
ダーリンコラム

<「断る」ということ>

「断る」ということばには、
ずいぶん強いものがあるよね。
やさしい気持ちでさ、おだやかに断ったとしても、
相手にはちがってとらえられるかもしれない。
「断る」ということのなかには、
「はねのける」とか「拒絶する」という意味が
混じってきちゃうことがあるよねぇ。
なにかについて「断る」だけで、
頼んできた相手そのものを否定するように
思われてしまうかもしれない。

だから、「断る」ということをするのには、
なかなか勇気がいる。
とても仲のいい関係があると、
「断る」ことは、やりやすいのかもしれないが、
それにしても簡単だとは言えないと思うんだ。

でも、勇気があろうがなかろうが、
「断る」ことを、まったくしないで
生きていくことはたぶん無理だろう。

「断る」の反対にあることばは、
「引き受ける」なんだと思うんだけど、
「引き受ける」にしたって、
ほんとうは「断る」とおなじだけの覚悟はいるはずだ。

実は「断る」ほうがいいと思うのだけど、
「断る」ことができないので「引き受ける」。
そんな場合も、よくあるよね。
これは、「安請け合い」っていうんだろうな。
これをやってしまうと、
いい引き受け方ができてないから、
こころが入りにくい。
こころが入ってないことをするのには、
ものすごくストレスがかかるから、つらくなる。
しまいには、頼んできた人をうらんだりすることになる。
相手をうらむくらいなら、最初から勇気を出して
断っていればよかったんじゃないか。
ほんとは、そういうことになる。

あるいは、いい加減に「引き受ける」と、
約束をやぶることにもなりやすい。
「はいはい、やっときますとも」みたいなことで、
軽く引き受けたつもりのことが、
あんがい難しい仕事だったりしたら、
約束をやぶらないまでも、
相手の期待に応えられないということになる。

見込まれて頼まれるというのは、
悪い気のしないことだから、
なんでもかんでもやってみたくもなる。
それに「断る」ことは、仕事をスタートさせる前に
かなりしっかり考えなきゃできないことなので、
引き受けてから考えようなんて思ってしまう。
まったく、もう、ほんとに、実際、よくあることだよなぁ。

ここまで言ってきたことを、
ちょっとした仕事だとか、
頼まれごとについての話だと思うと、
「はぁ、そうそう、なるほどね」くらいに
聞いてられると思うのだけど、
「断る」ことの内容が、結婚のプロポーズだとかだったら、
もっと切実に考えざるを得ないだろうよ。
いくら「断る」が苦手だとしても、
「いちおう、いいよ」なんて
引き受けられるもんじゃないだろう。

でも、ほとんどの
「断る・引き受ける」の場面というのは、
結婚のプロポーズよりは深刻じゃなさそうで、
意を決して断らなくても、
なんとかはなるようなことが多いんだよね。

自慢じゃないけど、ぼくも「断る」の苦手な人間だった。
たぶん、「むつかしい人」に思われたくない
という心理が、働いていたんだろうな。
そういう気持ちは、いまでももちろんあるんだよね。
でも、少なくとも、
「断る」ということについて、
昔よりもいっぱい考えてきたという気はするな。
「断る」ことができないばかりに、
積み重なっていく迷惑というものが、
借金のようにふくらんでいくものなんだ。
その迷惑というのは、他人にも自分にもかけるものだ。

『モノポリー』というボードゲームをやっているときに、
「断る」についての、ひとつの考え方を発見した。

<断る側は、その理由を言えないままで
 断ってもいいんだよ>
 
というものだったんだ。
それは、ゲーム上のことなので、
法則化しやすかったのかもしれないけれど、
この考え方を見つけたときには、
この先の人生がずいぶん楽になるんじゃないか、
とさえ思ったものだったよ。

これは、
「ある提案があった場合、
 それを受け入れるか断るかについては、
 提案されたほうが一方的に判断できる」
という意味のことだ。
もともと交渉というのは、そういうものだと思う。

さっきの、結婚のプロポーズの例で考えてみたら、
とてもわかりやすいだろう。
「なぜ断るんですか、
 わたしが納得できる理由を言ってください。
 その理由が正しくないならば、
 もちろんわたしは納得できません」
と言われたら、どうする?
たがいの合意で成り立つはずの結婚が、
「論争」の勝敗で決定することになってしまうじゃないか。

合意というのは、片方が少しでも嫌だと思ったら、
成立しないわけで、それでいいのだ。
理由を言ったほうが誠実だということも、
あるにはあるかもしれないが、
それはまったく義務ではないし、
サービスのようなものだ。
言える場合に、言えばいいだけのことだろう。

だいたい、セールスマンに、
「あなたが、わたしのすすめるこの商品を、
 買ってくれないという理由がわからないです!」
なんて言われてごらんなさいよ。
あってはならないことでしょう。

しかし、それでも、
「納得できる理由を言ってください」という
脅かし方は、けっこう効き目があるものなのだ。
言われた人は、しかもうまく理由を説明できない人は、
おろおろしてしまって、
「断る」ことに失敗してしまったり、
「断る」ことで提案者に対しての
負い目を感じてしまったりすることも多い。

だから、まるで法則のように、
<断る側は、その理由を言えないままで
 断ってもいいんだよ>
という言い方を考えたのだった。
ゲームの場合だったら、すっかり試合が終わった後に、
利害関係がなくなった状態で、
「どうしてあのときに、理由も言えずに断ったか」
について、提案者といっしょに考えたっていいことだよね。

ここまでが、「断る」についての、
ぼくの基礎的な考え方だったわけだ。

その後も、この「断る」について考えていて、
いまは、もうちょっと考えを進めている。

相手の提案を「提案という生産物」とするのだ。
そして、その「提案という生産物」を、
「消費しない」のが「断る」ということだ。
と、こんなふうに考えることにしている。

つくられたものは、つかわれることによって、
そのいのちを成就する。
しかし、つくられたものが、つかわれることは、
そう簡単ではない。

かつて、生産の側に力点が置かれていた時代には、
「生産を止める」というストライキがあったけれど、
いまのように
「生産と消費のサイクル」で
社会を見ていかなくてはならない時代には、
「消費を止める」というストライキのほうが、
かえって有効なのではないだろうか。
つまりそれは、強く言えば「不買運動」なのだけれど、
「なんとなく買わなくなった」というのも、
おなじような意味を持っているはずだ。

「断る」という道具の使い方、
「断る」ということについての考え方、
「断る」という行為のもつ大きなパワー。
この先、もっと研究してみたいことなんだよなぁ。

おまけにみたいに言うんだけれど、
売春という商売の、
いちばんよくないところは、
「断る」ことのできるはずの最も個人的な行為を、
「断れない」とするところで
商いが成り立っているからだと思うんだよ。
「断る」について考えるということは、
自由について考えることなんだろうな、たぶんなぁ。

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2008-03-24-MON
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