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ダーリンコラム

<ずんと大きな流れについて>

「ずんと大きな流れ」というものがあってさ、
これはもう、好きか嫌いかとかね、
正しいのか正しくないのかなんていう価値観を超えてさ、
「ずんと大きな流れ」としか言いようないんだよ。

いわば、「エントロピー増大の法則」みたいなものだよ。
雑な言い方をすればさ、
きれいに片づいた部屋は、ちらかっていくというわけでさ。
ちらかってる部屋が自然に片づくってことは、
絶対にないわけだよね。

これが、「ずんと大きな流れ」ってもんだ。

服装史とかね、ファッションについても、
人々の服装は、どんどんくだけていってる。
基本的にはカジュアル化していくのが、
「ずんと大きな流れ」だよね。

燕尾服のしっぽがとれて、いわゆる背広のかたちになる。
さらに、衿が取れていったりしていく。
ついには、ジャケットそのものを着なくなる。
そういう「ずんと大きな流れ」があったうえで、
逆行するように装飾的になったり、
変型のデザインがとりいれられたりしていく。
何度も言うけど、それが好きとか嫌いとか、
正しいとか正しくないとか、例外もあるじゃないかとか、
そういうことじゃないんだよ、ほんとに。

さらに言えばさ、
その「ずんと大きな流れ」があると困っちゃう人もいるよ。
その流れさえなければ、うまくいってたことが、
「ずんと大きな流れ」のせいで、
行き詰まるようになったりもする。
そういうこと、そういう人は必ずでてくるよね。

いまの時代の地方の商店街が、
シャッターが閉まったままだとか言われるし、
農業人口がどんどん減っていくとか、
実はテレビの視聴率が低くなっているとか、
日本人がコメを食わなくなったとか、
新聞をとっている人が減っているとか、
いろんなことがいっぱい起こっているけれど、
それは「どっちを選ぶ?」と選択を迫られて
選ばれてきたことというよりは、
「ずんと大きな流れ」で、
そうなってきていることが多いと思うんだよ。

つまり、どう言ったらいいのか、
「部屋がちらかる方向に進むように」
日本人はコメを食わなくなっているとか、
「部屋がちらかる方向に進むように」
新聞をとっている人が減っているとか、
「部屋がちらかる方向に進むように」、
人々の服装がカジュアルになっている
というふうに考えると、
「ずんと大きな流れ」というものが
実感的にわかるだろう。

ここで気をつけなきゃならないのは、
「部屋がちらかる方向に進むように」見えて、
そうは言えないという場合もあるということだよね。

例えばね、
結婚式は、「部屋がちらかる方向に進むように」
どんどん盛大に華美になっているだろうか。
それとも、結婚式は「部屋がちらかる方向に進むように」
どんどんジミになっているだろうか?
わからないんだよなぁ。
どっちの傾向も、そういう目で見ればあるよ。
そんな場合は、
「部屋がちらかる方向に進むように」じゃないじゃない?
つまり「ずんと大きな流れ」と認定しにくいんだよな。

「ずんと大きな流れ」のひとつひとつが、
まちがっていると考える人もいるだろうし、
「ずんと大きな流れ」に逆らって生きていくことを
選ぶ人も、当然いるはずだよ。
最初に言ったけど、正しいか正しくないかとか、
好きか嫌いかとかの話じゃないし、
時間軸を長くとってみれば、
得か損かの問題ですらないんじゃないかなぁ。

江戸時代に、開国か鎖国か、
さんざん争ったことは歴史で習ったけどさ。
「部屋がちらかる方向に進むように」開国に進んだよね。
「ずんと大きな流れ」は、開国の方向に流れていた。
その流れの上で、天皇はどうするんだとか、
ちょんまげはどうしましょうとか、あったわけじゃない?
どうしても認めたくないっていう人も、いたわけだしね。
いまは、その「ずんと大きな流れ」の延長にある日本に、
あたしもあなたも暮らしてるわけだ。

「ずんと大きな流れ」に、じょうずに流されながら
さまざまな考えやら行動やらをしていると、
うまく行きやすいよね。
どうしても「ずんと大きな流れ」がいやだという場合は、
その流れに逆らって泳ぐこともできなくはないけれどさ、
ものすごい労力が要るよ。
どっちもアリだと思うのよ、本気(マジ)でさ。

日本の労働人口でも、
第1次産業や第2次産業が減衰していって、
第3次産業がさらに増えていくっていう
「ずんと大きな流れ」があるよね。
これは「部屋がちらかる方向に進むように」
そうなってるって、理解されやすいと思うんだよね。
で、こういう時代に「おれは農業をする」というのは、
まずは「部屋がちらかる方向に進むように」とは逆の、
いわば「部屋を片づけながら生きていく方向に進む」
ということだと思うんだよ。
まずは、流れの逆に進むというコストがかかるよ。
さまざまな大変さは、当然のようにあるってことだ。
だから、まともに逆流して泳いでいったら
命がいくらあっても足りないってわけだよね。

ただね、別の「ずんと大きな流れ」もあるんだよね。
工業社会の都合で組み立てられていった
さまざまなシステムについちゃ、
「部屋がちらかる方向に進むように」
ほんとにあちこちから壊れてきているよ。
それはそれで、もっと散らかっていくと思うんだ。
そういう「ずんと大きな流れ」をBとするよ。

それと、さっきの
第1次産業や第2次産業が減衰していって、
第3次産業がさらに増えていくっていう
「ずんと大きな流れ」をAとすると、
どっちの流れにも逆らわずに泳いだ場合には、
「おれは農業をする」という行き方も、
まるっきりの逆流じゃなくなるとも言えるんだよな。
AとBの両方の流れの渦巻きのなかで、
働くみたいなことになるわけだもんねー。

だから、いまはおもしろいんだよな。
「ずんと大きな流れ」が、実はいくつもあって、
複雑に影響しあっているんだよね。
ひょいっと、流れに逆らって進んでいたはずの人が、
別の「ずんと大きな流れ」に流されていて、
うまくいっちゃったりすることもあるからねぇ。

こういうときっていうのは、
どういうことが「部屋がちらかる方向に進むように」
起こっているのか、
そして、どういうことが
「部屋がちらかる方向に進むように」じゃなく
起こっているのか、を、
見定めることが大事なんだろうな。
そう思うんだよね。
逆らうにしても、流されるにしても、
「ずんと大きな流れ」が見えてないと、
自分にも他人にもつらい思いを
させちゃうことになるだろうからねー。

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2007-12-10-MON
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