ITOI
ダーリンコラム

<勉強するくらいなら、遊べ!>

学校でやる勉強には、
すでに誰かが知っている「答え」
というものが用意されていて、
学ぶものは、その「誰かが知っている答え」に
たどり着けば点数をもらえる。

学生は勉強が仕事だ、というけれど、
その仕事である勉強というのは、
「既知の解答」にたどり着くということなのだ。

こういう学び方を、
基本的には、小学校に入る前から
大学を卒業するまでの間、20年くらい続ける。
大工の修業をするにしても、ピアノを習うにしても、
20年間やったら、相当なことが身に付くだろう。
一般の人であるぼくらは、
20年間も、この学び方の練習をし続けているのだから、
「誰かが知っている答え」を「私が手に入れる」
ということが、もう血肉化しているかもしれない。

ところで、ぼくは、
「誰かが知っている答え」に、
学ぶものがたどり着くという方法を、
まるっきり否定しているのではないですからね。
すでに先達ができていることを、
弟子ができるようになるのは、大事な修業だ。

で、さて、
社会に出ると、仕事の内容ががらっと変わってしまう。
「答えを知っている誰か」がいない、
というケースが圧倒的に多くなるのだ。
答えにたどり着くのが上手な先輩とか、
答えを引き出すことが得意な上司だとか、
人を答えのほうに歩ませていくリーダーとか、
いろんな頼りにできる仲間はいるけれど、
間違いない答えを先に知っている人は、
いない場合がほとんどである。

ナゾナゾの答えを教えてくれとせがむ子どものように、
「はやくはやく、この仕事はどうすればいいの?」
とお願いしたところで、
「それがわかれば、苦労はしねぇよ」
と言われてしまう。
そういうことばかりだ。

誰かが答えを知っている問題なら、
100でも200でも、すごい速度で解くことができる。
そういう秀才は、きっといっぱいいると思うのだ。
でも、誰にも答えがわかってない問題を、
なんとかするのが、社会での仕事だ。
さらに言えば、問題そのものを発見することが、
答えを導き出す以上に、大事な仕事なのだ。
こうなると、毎日毎日学校の時間割で6時限、
それを小学校6年間、中学3年間、高校3年間、
さらに進学したら大学4年間も
くりかえしてきた勉強のやり方は、
すでに存在する解答にたどり着くことだったのにぃ、
なのである。

なかなかこういう勉強で身に付けてきたクセは、
抜けにくいものだと思うよー。
しつこいようだけれど、同じ方法で
20年もやってきたことなんだからね!
捨てるわけにもいかない「学びの技術」だし、
いまさら否定されちゃったら困る自尊心もあるし、
少なくとも学校にいる間は、ほめられてきたのだし、
悩ましいところなんだと思うのですよ。
それでも、「誰も答えを知らないこと」ばかりが、
重要な仕事なのだというのは事実だから、
なにかの機会に、自分を変えなきゃならない。
映画やドラマの刑事ものだとかで、
よくあるよね、叩き上げの足で捜査する刑事に、
幹部候補生とか言われてるエリート刑事が、
さんざんバカにされたり難題を突きつけられて
育っていくという物語が。
ああいうのは、思えば、幸運なケースだと思うのだ。
あんなに親切に、脳内掃除をしてくれるような先輩は、
そうそういやしない。
せいぜいが、「やわらかな発想」だとか、
「余計な知識を捨ててかかった考え」を見せたときに、
「お、いいじゃないか」とほめるくらいのものだ。
それでも、親切なほうかもしれないな。
先輩方も、受験型秀才だったりしたら、
いつまで経っても知識や材料の出し合いをするばかりで、
いっしょになって「しょうもない人」になりそうだ。

くりかえすけれど、
勉強するのがよくないわけじゃない。
「誰かがわかってる答えにたどり着く」
スタイルの勉強の、
限界を知ることが大事だと言いたいのだ。
20年、一所懸命にやってきたとしても、
それは、あんまり役に立たないよ、と。
役に立ちそうに見えても、
調べればわかることだったり、
たえず古くなっていく情報だったり、
ちょっと足りないだけで
使えないようなものだったり、
そんなものだよ、と言いたいのだ。

じゃぁ、そういうスタイルじゃない勉強というのは、
どういうものなのか?
どこで、どう学ぶものなのか?
秀才の方々は、口を尖らせつつ、訊くだろう。
自分で考えればいい、と突き放すのもいいけれど、
あまりに簡単であっけないから、
ぼくなりの答えを書いておこうと思う。

それはよー、「遊び」だ。
遊ぶことが、「問題」をたえず探すことだし、
自分のすべてをぶつけて夢中になれることだし、
他人の考えや技術や感じ方をまねる機会にもなるし、
うれしさと共にあることなのだ。
よく、大学や企業が、
スポーツの部活動をやってきた人や、
何かの特別なチャレンジを経験した人を
採用したりするのは、
「わかってないことに対面してきた」からだよね。
問題を発見することから、自力で解決すること、
他人の協力を仰ぐこと、ぜんぶをやれないと
本気の「遊び」はできない。
それをやってきた人は、きっと、
「いっしょにわからないことを解決していく」
仲間になれると思われるのだろうね。
ぼくも、仕事をやっていく仲間としては、
ぜひ、そういう人がいいと思うもの。

「遊び」の凄みがわかってから、
「誰かがすでに知ってることを学ぶ」スタイルの
勉強をすることは、
これはなかなか効果があるんだけどね。
つい先日、『今日のダーリン』に書いた
「知識や経験は、鑑賞力を高める」もんねー。

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2006-09-04-MON
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