ITOI
ダーリンコラム

<対立をありがたがらない。>

「対立は、いいことだ」というようなことを、
無条件に思っている人が、けっこうたくさんいる。
激しく意見を対立させている現場に居合わせたとき、
「おお、それくらいでなくちゃ」とか、
ほめる上司なんかも、いっぱいいるらしい。

自分の意見を堂々と言って、
それが相手とちがっていたら、対決して、
徹底的に意見をぶつけ合い、火花を散らして、
よりよい答えを
導き出していくということらしいのだが、
それって、ほんとうなんだろうか?

どうも、「対立幻想」というようなものが
あるように思えてならない。
反対意見を衝突させて、
よりよい意見に鍛え上げていく‥‥って。
たしかにそういう場合もあるだろうけれど、
うまく行くときって、
そうじゃない場合のほうが、
ぼくの経験上は、多いんだよね。

日本人は、聖徳太子の昔から、
「和をもって尊し」としているから、ダメなんだ?
そうかなぁ、ダメなこともあるけれど、
ダメじゃないこともいっぱいある。
仲よくやれれば、それはいいことなんじゃないか。

若いときにいい加減に学んだ、
「弁証法」とかってのが、ほんとに正しいのかな?
「正(テーゼ)」があって、
それに矛盾する
「反(アンチテーゼ)」をぶつけたら、
昇華(アウへーベン)されて、
「合(ジンテーゼ)」が得られる‥‥とかいうやつ。
別にヘーゲルだか、
偉い人に逆らうつもりはないけど、
いいオヤジになってから聞くと、
なんだか調子のいい
「ご説明」にも聞えるんだよなぁ。

日本人はディベート教育をしてないからよくないとか、
論争なれしてない、ということも言われる。
よくないかなぁ?
ディベートの勝者って、
論理という道具使いのうまい人でしょ。
カンナをかけるのがうまいとか、
重いものを持ち上げるのがうまいとか、
とても目がいいとか、そういうことと
たいして変わらないんじゃないか。

だいたい、実際に、
やたらに反対意見を言ってくる論争好きの人がいたら、
その先のいい道を行けるようになるかねー?
インターネットのなかにも、
たくさんの対立や、無限に続きそうな論争が
たくさんあったし、あるようだけれど、
そのことで幸せになった人がいたのだろうか。

「なれあい」がよくないと、決まり文句で言う前に、
「なれあい」と「チームワーク」の
どこらへんがちがうのだろうかと考えるべきだ。
「なーなー」と「ツーと言えばカー」のちがいは
どうなんだろうか、とか、
「気持ちの楽しい側のこと」を中心にして、
いいこといけないことを
考えていけばいいんじゃない。

「対立は美しい」というような幻想で、
無責任に話をややこしくすることには、
ほんと気をつけたほうがいい。
「ドラマとは対立のなかに生まれる」
とかも言われるけど、
対立の見えにくいドラマだってあるよねぇ。
正・反・合の図式が、
よっぽど信じこまれているのかなぁ。

けっこう前々から、
ぼくはそんなことを思っていたのだが、
わざわざ言うこともないか、
と、言わないでいたみたいだ。
『明日の記憶』に関わって、
渡辺謙さんとメールのやりとりをしているうちに、
対立的に「向かい合う」のではなく、
別の考えを持ちながら「隣り合う」という発想が、
自然に出てきた。
そういえば、そんな考えずっとしていたなぁ、と
思い出したのだった。

「対立的なシチュエーションを設けて、
 いい結果を出せるくらいに、
 理解しあった関係になりたい」
と、これなら、わかるんだけどねー。

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2006-04-17-MON

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