ITOI
ダーリンコラム

<水たまりの思いで>

水たまりのなかに50円を落とした。
50円玉だったと、かなりはっきり憶えている。
前橋の地方裁判所の前だった。

父親の仕事場にお使いに行って、もらったものだった。
何かの理由をつけて小遣いをくれたのだ。
親というのは、理由の都合がつきさえすれば、
子どもに何かをやりたいものだ、
ということは、親になってから知った。

ぼくは小学校の二年生だった。
背丈でいえば、
1メートルに20センチほど足したくらいか。
傘の柄を肩にかけ、水たまりのなかに手を入れて、
落とした硬貨を探していた。
この景色は、あんまり尋常なものではなかったと思う。
雨の日に、
水たまりのなかに手をつっこんでいる子どもを、
だいたい、ぼく自身、見たことがない。

通りすがりの女の人が、その事情を訊いてくれた。
ありのままをぼくが語ったら、
落としたお金のかわりにと、50円をくれた。
他所の人にお金をもらったなどということが知れたら、
かならずきつく叱られる、と思った。
しかし、もらったばかりの
お金を落としたということでも、
叱られる可能性はあった。
心配な気持ちは、あったけれど、
子どもだったぼくは、
なんていい人がいるんだろうと思い、
ありがとうございます、とその50円を受け取った。

ただそれだけのことではあるのだけれど、
この話をいつまでもぼくは憶えている。
善意についての寓話だとも思わないし、
心温まる話というつもりもないのだが、
忘れられない。

あのとき、小さな小学生に雨のなかで50円くれた人は、
そのことを憶えているものなのだろうか、と思う。
とても小さなことだから、憶えてないかもしれない。
でも、雨の降る日に水たまりのなかの小銭を、
いっしょけんめいに探している子どもというのは、
何度も会うようなものじゃないから、
ひょっとしたら憶えているかもしれない。
こんなことを、ぼくは何回考えたかわからないのだ。
中学生のときにも考えたし、
大人になってからも考えた、
そして、いい年をしたおやじになったいまでも、
まだ思いだして、こんなことを書いている。

こんなことさえ、人間は忘れないものだ。
そういうことの例になるような、
ぼくにとっての「水たまりの事件」なのだ。

いろんな人のこと、いろんな人にしたこと、
いろんな人にされたこと、言われたこと、
意識的にやったこと、考えなしにやったこと、
小さなこと、小さいとはいえないこと、
たくさん記憶の海に漂っていたり沈んでいたりして、
いつまでもまるまるなくなってしまうということがない。
いっぱいあるよ。
父親の自転車に乗っていた夜の会話とか、
ともだちがついた真剣な嘘のこととか、
憶えていようと思ったわけでもないのに、
忘れないことは、いっぱいある。

人にいやなことを、たくさんしている。
ひどいことをしたりされたりもしている。
そういうことも忘れてしまえばいいのに。
そして忘れてしまったつもりでいるのだけれど、
消化しきって排出できているようなことは少ない。

なんでも、
こんなに憶えているものなんだと知っていたら、
もっと丁寧に生きてこられたのかもしれない。
知らなかったのだ。
思いでなんてものは、びゅんびゅんと、
一瞬の景色として後ろへ後ろへと飛んでいって、
二度と出会うことのない幻だと思っていたのだ。
でも、それはそういうものなのかもしれないけれど、
心には、いちいち幻の跡形がくっきり刻まれている。

こどもが、小学生くらいのときに、
こんな話をしてやれればよかったなぁ、と思った。
いま見ている景色は、
ぜんぶ、後で思い出すものなんだよ、と。

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2006-01-16-MON

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