ITOI
ダーリンコラム

<「ほぼ日」はテレビになっていく。>

「ほぼ日」では、なんやかんやと、
テレビについてのコンテンツがたくさんある。
それは、ぼく自身が
テレビについて考えていることが多いこと、
テレビを観る機会がとても多いこと、
仕事の関係者や知りあいにテレビ業界の人が多いこと、
テレビの話題は、とてもたくさんの人に通じやすいこと、
などの理由が考えられる。

人々が一定の地域に住んでいて、
生まれてから死ぬまで、そこに落ち着いてる、
というような
村を中心にした社会が安定的にあった時代なら、
人々の共通の考えや思い出が、
地域ごとにあったのだろうけれど、
いまは、人は村の単位で暮らしていない。
隣に誰が住んでいるかよく知らないというくらいの、
他人同士が寄り集まって都市というものを構成している。
安定した村社会がすっかりなくなった
わけではないのだろうけれど、
となりが誰に変わっても不都合はありません、
というくらいの都市化なら、
もう、日本全国がそうなってしまっていると思う。

いま日本に暮らしているぼくらは、
隣の人やらお向かいの人よりも、
明石家さんまさんの顔を見ている時間のほうが長い。
学校のクラスのなかで、あんまり親しくない級友よりも、
青木さやかについてのほうがよく知っていたりする。
住んでいる町の町長さんの名前よりも、
現実に会ったことのない韓国のスターの名前のほうを、
ずっとよく憶えていたりする。

そういう状況をつくりだしているのは、マスメディアだ、
と、よく言われるけれど、
マスメディア全体というよりは、
ほとんどがテレビの力によるものだろう。

いままでの日本人が故郷をなつかしむように、
いつごろからかの日本人は、
「ある時代にテレビに出ていた人々」を、
なつかしんでいるものだ。
いや、人々ばかりではない。
「風景」や、「言葉」や、「考え方」や「表情」や、
「歌」や「デザイン」などなどのなかに、
ぼくらは昔の人が村の大きな樹木をなつかしく思うような
親しみをこめた思い出を感じている。

人々が、どんなにテレビ離れしたといっても、
まだまだ、ぼくらはテレビというものが生み出す世界から、
離れてなんかはいないのだと思う。
インターネットも含めて、さまざまな
テレビというメディアへの補完的な媒体は増えたけれど、
まだまだ、人々のこころの圧倒的な大陸は、テレビだ。
それに比べたら、新聞は小国程度の面積だろうし、
インターネットですらも、未開の新大陸という感じだ。

あいかわらずの『新選組!』ネタですみませんが、
近藤勇や土方歳三が、
薩長軍の圧倒的な砲術攻撃にさらされて、
「どんなに優れた剣の技術をもっていても、かなわない」
と腹の底から納得してしまったようなことがあったらしい。
しかし、テレビを前にした
活字メディアに関わる人たちが、
「刀剣と鉄砲隊」ほどのツールとしての能力差を
感じていたとは思えないのだ。
たぶん、テレビの側にいた人たちも、
活字メディアに関わっていた人たちも、
「どちらのメディアにも利点と欠点がある」と、
ごく自然に、簡単におだやかに
結論づけてしまったのではなかろうか。

しかし、このごろ、あらためてぼくは思っている。
テレビというのは、
(いま現在のテレビのありようが
どうであるかは別としてだけれど)
刀に対する鉄砲隊くらい優位なメディアである、と。
ずいぶん粗雑なことを言っているようだけれど、
素直に考えてみてほしい。

ごくごく単純なことから言おう。
テレビの画面に本の内容は映せるのだ。
つまり表現の道具としての「活字」は、
テレビというメディアの中に含まれてしまうのだ。
テレビの画面に、文章が映っていたら、
活字メディアの機能をもってしまえる。
本のように持ち運びがしにくいとか、
任意のページをすぐに開きにくいとか、
道具としての別の要素があるにはあるけれど、
「何かを伝える」ためのメディアと考えたら、
目で読ませるための文章を表現できるのだから、
テレビは本と同じ役割が果たせてしまうのである。

そして、テレビには動く画像が映せる。
それにさらに耳から聞く言葉、音声が乗せられる。
感情に訴えかける音楽もいくらでも流せる。

文字が乗せられて、動画が乗せられて、音楽が乗せられる。
つまり複数の表現をいっぺんに乗せられる皿が、
テレビというメディアなのだ。
また、複数の表現がいちどに届けられるということは、
それぞれの表現のかけ算ができるということでもある。
表現の工夫がそれだけ豊富にできるわけだ。
ただ、放送媒体としてのテレビでは、
その時々に放送されている番組(コンテンツ)を、
その時々に見なくてはならないという不便がある。
だけれども、いまの一般的なテレビには、
DVDなどの外部入力と組み合わせられる仕組みがある。
保存しておいたコンテンツを、いつでも好きなときに
見ることも自由になっている。
コンピュータをつなぐこともできるし、
コンピュータを組み入れてもいるので、
計算や通信なども、どんどんできるようになった。
さらに、ディスプレイの精度もすごいことになっていて、
画面の面積も大きい小さい選べるようになっている。

‥‥もう、無敵のメディアじゃないか、これは。
いっとき流行していた「マルチメディア」という概念も、
実は、いま「テレビ」というものに変装して残っている。

オリジナルであることをとても重要視する
アート作品などの場合はともかくとして、
複製の「作品」なり「メッセージ」を、
広く配付するような場合には、
これより強力なメディアがあるとは思えない。

例えば、教育についても、いまのテレビの使われ方は、
まだまだ自信が足りないように思える。

生身の先生がいて、その先生のいる現場に生徒がいる。
そういうふうにして教育することも必要であるとは思う。
生身のつながりのなかでしか、生まれえない
感情と知識の一体になったような教育は、
マスのコミュニケーション媒体であるテレビには
苦手なことだとも言えなくはない。
しかし、それは「言えなくもない」という程度のことだ。

いちばんいい先生が、映像や音声や文字の表示を駆使して、
熱心に、親切に教えてくれるような授業が、
テレビの画面から流れてきたとする。
これを、例えばだけれど、
熱心でない先生が、ぼそぼそを低い声で、
不勉強なままの状態の知識を、黒板だけを使って
ライブで語ってくれる授業と比べたら、
どうだろう?
こんなに極端でなくても、
最高の授業をやろうと思って、
いいキャスティングをして手間ひまかけたら、
きっとよくわかるおもしろい授業はできるはずだ。

ぼくは、最近なにかとよく言われてないNHKの
「お勉強番組」が大好きだ。
日本人は、どこからやってきたのか、だの、
地球はどういうふうに進化を生み出してきたのか、だの、
脳というのはどんなものであるのか、だの、
世界には、こんな素晴らしい遺産があるんだぜ、だの、
土方歳三は函館でこんなふうに死んだんだ、だの、
まるで「見てきたかのように語られる」番組で、
劣等生のぼくは、たくさんのことを知った。
そこで驚いたりよろこんだりしながらおぼえたことを、
試験されたりして高得点をとるという自信はないのだが、
どういうことを知れば、感じればよいのかは、
自信をもって学べていると言える。
最近では『地球大進化』のシリーズが、
ほんとにおもしろかったのだけれど、
そこでは、「いつでも生き残るのは弱い側でした」という
まるでイソップの寓話のような事実が語られる。
むろん46億年という、
とほうもない単位の時間を扱うので、
確かめることの困難な仮説も多いらしく、
その部分については、山崎努という俳優を語り部にして、
「個人の感覚」に訴えかけるような演出になっている。
何億年も前の海のなかで、どんな生き物が
どんなふうに動き回っていたのか、
CGを利用して画像で表現しながら、
ナレーションや音楽を重ねて、
ぼくらに「地球の感動の歴史」を見せてくれる。
こんなことを、ひとりの先生が学校で教えようとしても、
誰も聴いてないような授業になってしまうかもしれないし、
一年で教えられないくらい時間のかかる授業になりそうだ。
テレビという「マルチメディア」があったからこそ、
ぼくは、時間も手間もかけずに、
進化の歴史に感動し、自分たちの行く末について、
多少の戦略を考えようとしたものなのだった。

また、本を読むには、
いまの自分が疲れすぎているという時でも、
テレビなら見られるような気がして、
ついつい見てしまうこともある。
番組をつくった人間の創造力と、
見ている側の想像力とが、たがいに助け合うので、
けっこうややこしいことでも、
なんとか消化できてしまうものなのだ。

長くなってしまった。
テレビが、実はとんでもないメディアであるということを、
ぼくはなんだか再発見してしまい、興奮しているのだ。

こんなふうに、「マルチメディア」の仕組みとして、
テレビというものを考えたとき、
ぼくらがいまおたがいに利用しているインターネットは、
「テレビの一部分」という位置づけで見られるようになる。
いや、インターネットがテレビに敗けたわけじゃない。
「テレビ」という名前のまま発展した「マルチメディア」が
インターネットという通信網を統合して、
発達しつつあるという実感があるということなのだ。

だから、「ほぼ日」はインターネットのメディアだけれど、
将来的には、ひとつの「テレビ局」として
働くようになると考えたほうがいいだろう。
そんなふうに思ったのだ。
むろんディスプレイは、個人が使う
パーソナルコンピュータの
ディスプレイが中心なのだろうが、
その画面のなかにあるのは、
テレビというものの進化形なのだ。

いまは、なんだか妙なことを言っているように
思われるかもしれないけれど、
いずれ、もっとわかってもらえると思うし、
ぼくももっと上手に説明できるようになると思う。

テレビは「ほぼ日」になるし、
「ほぼ日」はテレビになる。
マルチメディアという考え方は、ここに生きている。


このページへの感想などは、メールの表題に、
「ダーリンコラムを読んで」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2005-01-10-MON

BACK
戻る