ITOI
ダーリンコラム

<世界の中心>

今週も、雑談として書きますので、
そんな感じで読んでください。
こんなことを書き出したきっかけは、
別に、『世界の中心で愛を叫ぶ』という
かっこいいタイトルに刺激されたせいではなく、
ただ単に、犬が来ただけで、
我が家では夫が妻を妻が夫を
「おとうさん」「おかあさん」と
呼びはじめてしまったということへの、
微笑ましき違和感によるものであります。



自分を、どういうふうに高めていくかだとか、
自分の立場を向上させるだとか、
自分にもっと多くの利益がくるようにする、だとか、
そういう自分を中心にした考え方や生き方は、
恥ずるべきでもないとは思う。
いわゆる「自己チュー」と呼ばれるような、
他人の迷惑を省みない態度をとっていたら、
他人の協力も得られなくなって、
結局、自分の利益も追求できなくなってしまうのだから、
社会生活をふつうに送っていて、
自分中心の生き方をしているというのは、
なんの問題もないと言える。

だいたい、赤ちゃんでも、
自分中心のかたまりみたいなものだからね。
飲みたいときに飲もうとするし、
出したくなれば出すし、眠たくなれば寝る。
自分ひとりじゃなんにもできないけれど、
親がいるから、その親を利用して生きている。
それでいいわけだ。

しかし、おもしろいもので、
自分を中心にした生き方をくりかえしているうちに、
そうでない生き方に魅かれるようになってくる。

こころから好きな人ができたときには、
その人が世界の中心になる。
その中心のまわりを、自分がまわっているのだ。
結婚してこどもができたりすると、
夫婦はおたがいのことを「おとうさん」「おかあさん」と、
こどもを主体にした呼び方で呼ぶようになる。
で、そういうときには、たいてい
「なんだかしあわせ」のような心持ちなのだ。

会社人間とか悪口を言われるような人が、
会社のためを思って懸命に働いているときには、
自分は、世界の中心にはなく、
会社が世界の中心になっているのだろうと思う。

国という視えないものを、
人類という抽象を、
芸術という観念を、
つまり自分以外のなにかを世界の中心に置くと、
自分を中心に置いている状態よりも、
自由になったり、楽しくなったりすることもある。
そりゃ、ずるい、という人もいるだろう。

だけど、
世界中の人たちの大多数は、
何かの宗教を持って生きているというではないか。
それは、世界中の大多数の人が、
自分ではなく自分の神を世界の中心に据えて
人生を送っているということでもある。

ということは、自分を中心にして
向上しようとしたり、儲けようとしたり、
幸せになろうとしたり、役に立とうとしたりしているのは、
けっこう少数派の人間たちだということになりそうだ。
ぼくの想像では、つまりそんな
「できもしない、むつかしいこと」は、
世界の大多数の人たちは「ご遠慮もうしあげている」
ということなのではないだろうか。

もともと自己顕示欲は強いわりに自我が薄い、と、
人に言われてきたぼくのだけれど、
そういえば、かなり若いときから、
世界の中心の位置に自分を置くことが少ないように思う。
たぶん、そういう場所に自分を置くと、
考えが袋小路に入り込んでしまうということを、
直感的に知ってしまったせいだと思う。

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2004-04-26-MON

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