ITOI
ダーリンコラム
コップのなかの水を捨てる

何かを新しく身につけたいと思ったら、
いままで自分が持っていたものを捨てる勇気が必要だ。
それを、コップのなかの水にたとえた話があった。
「せっかく湯を注いでやろうとしているのに、
 おまえのコップには水がいっぱいに入っている。
 これでは、お湯をいれても、あふれだしてしまうだけだ。
 湯がほしいのなら、コップのなかの水を捨てなさい」。

この話は、たしか、中村天風という人の本で
読んだような気がしていた。
インドの山奥でヨガの先生に言われたということだった。
いま本棚から 『成功の実現』という本を探してきて、
とりいそぎ調べたのだけれど、
そのくだりが見つからなかった。
よく読めば探せるような気もするけれど、
いまはこのまま書くほうを続ける。
(話はそれるけれど、
この『成功の実現』という本は、愉快だよ。
いまでも9800円もしているけれど、
ぼくが持っている本の奥付を見たら
1989年の十八版で、12500円と記されている。
その値段だけでも興味深いだろう?)

このコップの水のたとえ話には、
ずいぶん強い印象があって、
いつまでも新鮮に憶えている。

『木のいのち 木のこころ』(地)の著者、
宮大工の小川三夫さんも、似たようなことを言った。
弟子入りしてから、かなり長い期間は、
それぞれの弟子が、
自分のなかに持っていると思っている技術やら、
考えやらを捨てるための時間だというようなことだった。
空っぽにならないと、知るべきことは受け取れない。
ご自分も、そうして西岡常一棟梁から学んだという。

『百万分の一の歯車』の松浦元男さんの会社には、
世界一の技術を誇る社員たちがたくさんいるけれど、
松浦さんのリクルートの方針というのは、
「先着順」で就職してもらうということのはずだ。
もともと、何かを持っている人を雇ったのではない。
松浦さんは、こうも言っていた。
「試験をしたところで、学校の勉強ができるかどうか、
 それはわかるかもしれない。
 でも、これからうちでやってもらいたいのは、
 学校の勉強じゃないんです」と。

あ、いま、NHKで再放送している番組で、
犬養道子さんが
「アンダースタンドとは、下に立つことだ」
という話をしている。
理解、などという難しい言い方をするのではなく、
下に立つことが「わかる」ことだと話している。
これも、似たような考え方だ。

ぼくも、そういう話を聞くたびに、
大きく頷いているのだけれど、
こりゃ若いときには思ってなかったことだなぁと
気がついた。
おそらく、若いときだったら、
「俺がもともと持っている実力と、
 これから先生に習うこととが合わされば、
 最高の仕事ができるんでないかい?」と言うだろう。
これが、ぜんぜんちがうんだよなぁと知るのは、
ほんとにずいぶん最近のことだ。
「俺がもともと持っている実力」なんて、
ないと思ったほうがいい。
クマの仕事をするのに、
クワガタムシの実力を誇っているようなものだ。

いやいや、わざわざそんなたとえ話を考えなくても、
コップのなかの水の例で十分だ。
しかし、その水を捨てるというのが、
けっして簡単なことじゃないからこそ、
この話はおもしろいのだ。
捨てたとたんに、死んでしまうような気がするのだ。
呼吸にしたって、
吐くを先にして、吸うをあとにするのが自然なのに、
吸うを先にしないと酸欠してしまうではないか、と、
ついつい心配してしまうのが人間なのかもしれない。
(試しに、思いきり息を吐けるだけ吐いてみたらいい。
 しっかり吐けば吐くほど、たくさんの空気が吸える)

こんなテーマを、なぜ書く気になったのかといえば、
いまが冬の終わりでさ、
春になったら、いろんな現場に、
新人たちが新しいことをするために
向かっていくと思うからだ。

何もできないこと知るために、これからの一年がある、
と言っても過言でない。
かっこよく「何も出来ないやつ」になろうね。
新人でなくても、
いつでも新しいことに立ち向かうときには、
同じなんだよなぁ。

コップの水は、いつでも捨てて、
空っぽにしておきたいものです。

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2004-02-23-MON

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