ITOI
ダーリンコラム

<おもしろいの大きさ>


ぼくなりに、「へー」な感じがあった日に。
指がタイピングすることをたのしみつつ。


谷川俊太郎さんが、池袋のジュンク堂書店
「谷川俊太郎書店」の店長さんをしている。
ひと月に一度、「お買い求めのお客さま」に、
この店長はいちいちサインをしてくれるのだ。
ぼくは、9月のイベントの打ち合わせがあって
そこにおじゃましたのだけれど、
店長さんにすすめられるままに、
本を買うお客さんの役割もすることになった。

何冊か、すぐに手に入れるのはむつかしそうな
美術書を買ったりしたのだけれど、
やはりここは谷川店長さんの本を買い求めて、
ぜひ、あのていねいなサインがほしいと思った。

『はるかな国から
 やってきた
 谷川俊太郎』
(童話屋・刊)
という本を買った。
いままでの谷川さんの詩を、
「童話屋」の田中和雄さんが編集したものだ。
18歳の天才少年が書いた詩からはじまって、
先輩、草野心平さんへの追悼の詩で終わっている。
そしてエピローグのように、
もういちど、若いときに書かれた大きな詩が現れる。
ページを開くごとに、
ファンでなくとも知っているような、
どこかになじみのある詩が次々にでてくるのだけれど。
ソファにごろんと横になって、
ちょっとうれしい気持ちで読んでいるうちに、
ぼくは、自分がずいぶんと笑っていることに気がついた。
いや、腹筋を震わせるような笑いじゃないんだよ。
唇の両端が、気持ちよく上にひっぱられるだけ。

わぁ、谷川俊太郎の詩は、こんなにおもしろいのだった。
そうなのだ。おもしろいのだ。
ギャグとか、笑わせるコントとかとはちがうのだけれど、
笑いにつながるなにかが、たっぷり入っているのだ。
くだものにも、コメにも、魚にも、
砂糖はいれてないのに甘みがあるのだけれど、
そういう天然の甘さに近いようなものとして、
笑いがあるということらしい。

もともと、「笑み」というのは、
「栗の実が笑んだ。」というふうに使われる言葉だ。
(たしか、柳田国男の『妹の力』に出ていたと思うが、
栗のイガのある実が熟して自然に割れて
中の食べられるタネの部分が出てくることを、
「笑む」というんだけれど)、
そういうところに笑いの原点があるのだと思う。

若いときの谷川さんが、その後の谷川さんが、
いまの谷川さんが、
笑わせることを意図して詩を書いていたのかどうかは、
ぼくにはわからないけれど、
読む人の「笑み」をひきだしたいという気持ちが、
きっとあったんじゃないかと思える。

おそらく、ぼくが谷川俊太郎の詩に、
あらためて「おもしろい」と感じ、
笑いにつながるようななにかを見たのは、
もともと詩のなかにあった「滋養」のせいだったのだろう。

古典の勉強をちゃんとやってないぼくは、
付け焼き刃的に、広辞苑を調べてみた。
「おもしろい」という言葉には、
「(一説に、目の前が明るくなる感じを表すのが原義で、
もと、美しい景色を形容する語)
目の前が広々とひらける感じ」
という説明に続いて、
「気持が晴れるようだ。愉快である。楽しい」という
意義が一番目に記してあった。
「滑稽でおかしい」ということばかりが、
「おもしろい」の指し示す意味として使われているけれど、
この言葉の世界は、もっと広くて大きいものなのだ。

そうか、やっぱり、という思いだった。
「おもしろい」ということの大きさと広さを、
「笑い」というものの、可憐さを、
ぼくらはもっと味わうことができていたはずだ。
谷川さんの詩を読んでいて、そんなことを発見したとは、
まったくぼくも幸運な人間だ。

そういえば、先日、川上弘美さんと対談したときにも、
川上さんは、
「わたしは、けっこう笑ってもらいたくて書いてる」
というふうなことを言っていたっけ。
それはわかります、ぼくは笑っているもの、
川上さんの書くものを読んでいて。
あのときに語られていた「笑い」も、
そうだそうだ、そういうものについての話だったのだ。

気持ちよく、
自然に、
笑む。

こんなにうれしいことはない。
それは、かなしみにさえ、にている。

なお、ふだんほとんど引用ということをしないぼくが、
広辞苑をひいたりしている理由は、
「カシオの電子辞書を買ったから」です。


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2003-08-18-MON

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