ITOI
ダーリンコラム

<卒業写真のやさしい目をしたあの人>

今回は、ともだちとむだ話をしているときのように、
雑談そのものを、指が動くままに書いてみました。
いわゆる、思いつくままのおしゃべりです。


松任谷由実の、荒井由実だったころの曲に、
『卒業写真』というのがある。
これ、つくられてからすごい年月が過ぎているんだけれど、
ほんとうによくできた曲で、
実は、ぼく自身がいまでもよく歌っている。
いや、大丈夫、ひとりでクルマのなかで、だから。

特に、詩がよくできていると思うのだけれど、
ずっと気になっているのは、
歌の主人公である「人混みに流されて変わっていくわたし」
のほうではなくて、
卒業写真のなかで、やさしい目をしているという
「あの人」という男性のことだ。

ほんとは、歌詞全体を引用したほうがわかりやすいのだが、
内容だけをざっくり紹介すると、こういうことだ。

・わたしはいま大学生(学生を終えて社会人)である。
・悲しいことのあるときには、
 卒業写真を見ることにしている。
・そこには、あの人が
 いつも変わらぬやさしい目をして写っている。
・わたしはあれから変わった。
・しかし、あの人は変わってない。
・時々、わたしはあの人に叱られたいと思う。

ひどいね、詩を内容だけで箇条書きにすると。
もうしわけないと思う。
怒らないでください、ユーミン様。

どういうやつなんだろうと、思うのだ。
この「あの人」という高校生(大学生)は。

社会のさまざまな愉しみやら、駆け引きやら、妥協やら、
化粧やら、なんやらかんやらを、
主人公の女性はおぼえていくわけだ。
これは、当然のことだ。
しかし、主人公の女性は、その自分の変化を
当然のこととしてとらえきれずに、
「流されている」と感じてもいる。
意志を持って変化しているのではなく、
ずるずると変化させられているというふうに、
変えられていると思っているらしい。
だから、少しの罪悪感が残っているのだ。

しかし、卒業写真に写っている「あの人」は、
変わっていない。
これも、写真なのだから当たり前のことだ。
おそらく、写真を撮影した当時の「わたし」も、
彼と同じような考えや思いを持っていたのだろう。
しかし、「わたし」は、その「あの人とわたし」の世界を、
いま裏切りつつあるわけだ。
だから「叱って」ほしいというわけだ。
叱られることで、許されたいということなのだと思う。
変化する前の「わたしたち」のいた時代は、
ちょうど知恵のリンゴを食べる前のアダムとイヴの世界で、
罪もなく恥もないような青い春だった。

よくできた歌だ、ほんとうに。

ただ、ぼく自身はなぜこの歌を歌うのだろうか?
ぼくは、人混みに流されて変わることを当然だと思うし、
高校生じゃないのだから、
ろくでもないことをやったり思ったりしておかしくない。
そう思っているはずなのに、
この歌に寄り添いたくなる気分があるのだ。
「おまえも変わったように、オレも変わったよ」と、
ま、ゆっくり話しましょうかね、な感じなのかなぁ。
写真のなかで変わってない「あの人」というのも、
おそらくは普通の男性のひとりで、
写真のシャッターが切られた瞬間から、
現実の時間を泳いできているわけだ。
な、そういうことだよ、と、遠い目をしたいわけさ。

しかし、この「わたし」が卒業写真を見ているのは、
いくら変わったと思っていても、
数年分の変化しかない時代だから、
いわば、青春後期の女性が、
青春前期を振り返っているということで、
とりまとめて全部青春ってことなんだよなぁ。
この「わたし」が、しっかり年輪を増やしていって、
45歳くらいの「あの人」を想像したら、どうなるのかなぁ。
脂肪肝や、髪の薄さや白髪や、そういうもろもろのなかに、
「やさしい目」を発見するのだろうか。

それはそうと、この歌の「わたし」というのは、
卒業写真の時代には、
「あの人」の価値観で世界をつくっていたし、
その後の変化は、「人混み」という世間に流されていたし、
変化に後ろめたい気持ちを持っても、
「あの人」に「遠くで叱って」と頼むわけだし、
実はけっこう依存性の高い人なんだな、と気がついた。
世間でイメージされている作者のユーミンさんとは、
ずいぶん違うようにも思えるのだけれど、
だからこそ、歌に普遍性がでて、
ロングセラー的な名曲になったのかもしれないな。

さて、長くなるので、やめときます。

2003-04-21-MON

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