ITOI
ダーリンコラム

<がんじがらめ。>

12月の28日の朝に日本を出て、
帰ってきたのが1月4日の早朝だったから、
約一週間、いつもの暮らしを離れていたことになる。

ビンタン島というのは、かなり強引に
「高級リゾート」を建設してしまった観光地のようで、
地元の文化と断絶している感じがあった。
ホテルの施設やサービスに、
その地ならではの背景が感じられないのだ。
建物や施設は、資本があったらつくれるけれど、
そこを動かしていくサービスには、
無駄とも言えるような「文化」の背景が必要になる。
いま現在がどうなっているのかは知らないのだけれど、
バリ島の「アマン」チェーンのリゾート開発には、
もっといい意味での無駄や個性があったように思う。
別に今回の旅にとても大きな不満があったとは言わないが、
なーんか、見えない経営陣に対して、
ちょっと文句言いたい感覚が残った。
我が家の一年の贅沢予算を、
総投入して遊びに行ってるもんだから、
過剰に燃えていたのさ。
なんか、「もうちょっとの何か」をケチっちゃいけないよな。
ちょっとでも儲かりますように、というのは、
経営者のふつうの姿なのかもしれないけれど、
おたのしみの商売では、コストをたっぷりかけている感じに、
お客さんは惹かれてひいきになっていくものだからね。

で、さて、だ。
日本に戻ってきたとたんに、ぼくは気付いた。
テレビが、すごい!
ずっと日本にいてテレビを観ていた人は、
くだらねぇ番組ばっかり立て続けにやってる、
という印象を持っていたのかもしれないが、
一週間、まったくテレビを観ていなかったぼくには、
すごいものに思えてならなかった。
大好きな『はじめてのおつかい』があったのも、
理由としてけっこう大きいのかもしれないけれどね。
自分で、ある程度観たい番組をチューンしているのだから、
ある程度おもしろいのは当然といえば当然なのだけれど、
新聞のテレビ番組欄を見ては、次々に番組を変えていくと、
だいたいは観ていて飽きないものだと知ってしまった。
くだらないとか、欠点があるということも含めて、
おおむねよくできているのだ。
ほんとうに、テレビを馬鹿にしちゃいけないと思う。
それは、ほんとうに、なのだ。
観ている人間に負担をかけることなく、
その多くをたのしませ続けるメディアとして、
テレビというのは、もう、魔法に近いくらい進歩している。
そのことを、なめていたら、
いま現在の大衆が主役の社会を、まったく理解できなくなる。
ぼくは、そう思う。

こんなにすごいテレビというものを、きっとぼくは、
見続けるような日々がくるのだろうと、
正月に直感した。

と同時に、それを光としたら、
影のように、もうひとつの気持が沸きおこっていたのだ。
ぼくは、ぼくらは、テレビに「がんじがらめ」じゃねぇか。
好きなのだったら、それでいい、とは言えないほど、
ぼくらはテレビなしでは生きられないくらいの
毎日を送っている。
こんなにおもしろいものを、ずうっと見続けようと思えば、
いつまでも、それをやり続けることができる。
これは、とてもいいことでもあるし、
とてもコワイことでもあると思うのだ。

同じことは、インターネットにも言える。
「帰宅したらテレビより先にネットに接続する」と、
数年前に、アメリカの仕事環境として語られていたことが、
いまの日本でも、その通りになっている。
ぼく自身が、ネットにつながっていないと、
もう自分でなくなっているというくらいになっている。
冬休みも、ビンタン島にいても、高い通話料を払いながら
必死でジャカルタに接続して、
メールやら、さまざまなサイトのチェックをしていた。
実際、ぼくはインターネットに「がんじがらめ」、
という状態で数年を過ごしているように思う。
「がんじがらめ」になるほど、
やっぱりインターネットはすごい。
それはそれで、ほんとうのことだ。

思えば、ひとりの人間は、
いろんなことに「がんじがらめ」になっている。
恋をしている人は、恋人に「がんじがらめ」かもしれない。
「公園デビュー」に悩んでいるお母さんなどは、
ご近所の噂に「がんじがらめ」になっているのだろう。
会社というものも、とんでもないほど魅力があったりして、
これに「がんじがらめ」になったまま一生を送る人も多い。
趣味の世界に「がんじがらめ」ということもあるし、
規則やしきたりに「がんじがらめ」の人だっている。
いつもやっている仕事の仕組みに
「がんじがらめ」になっているということもある。

だが、そういう「がんじがらめ」から
いったん抜け出してしまうと、
どうしてあんなに、と思ったりもするのだけれど、
「がんじがらめ」の最中には、それがわからない。
いや、たとえわかったとしても、
「がんじがらめ」である状態が、
快感だったり、自慢だったりするのだから
どうにもならない。
いまのぼくは、
まったく読まなくなってしまったのだけれど、
マンガの週刊誌に「がんじがらめ」だった時代があって、
正式の発売日より、どれだけ早く次の号を読めるか、
必死になっていたことさえあった。
1号だけでも読み逃したら、
世界が成立しないような気さえしていたもんなぁ。

「がんじがらめ」にさせてしまうようなことは、
だいたい、その人にとって、とても大きな意味を持ち、
なんらかの魅力を持つ、すごいことなのだ。
だから、何にも「がんじがらめ」になれない人がいたら、
それはそれで幸せなこととは言えないように思う。
それは、見事なまでの距離をキープしたまま
つきあっていられるクールな恋人が、
なんだかつまらないというようなことでもわかる。

それでも、「がんじがらめ」というのは、
動きがないという状態でもあるのだ。
動きがない、というのは生き物としては
非常に不自然なことであり、
それだけ死んでいることに近い。

はじめの、テレビに戻って考えてもよくわかるけれど、
テレビはおもしろすぎるのがイケナイのだ。
うまくおもしろがらせてくれすぎるから、
それ以外の出会いがなくても、生きていけてしまう。
それは、テレビほどじゃないけれど、
インターネットも、おもしろすぎるのがイケナイ。
テレビとインターネットだけで、
完全に1日をつぶしてしまうこともできるくらいスゴイ。
「ひきこもり」という言葉を、よく聞くようになったけれど、
テレビとインターネットがなかったら、
「ひきこもり」だって、退屈して外に出てしまうだろう。
外にでなくても生きていけてしまうということで、
死人に近づいているという言い方だってできる。

恋人にしても、「がんじがらめ」状態の熱病の時期には、
相手の一挙手一投足が気になるだろうし、
自分といっしょにいない時間があるだけで腹が立つ、
というくらいのことだってあるだろう。
しかし、それは、
「すっごく生きているようで、とても殺し合っている」
という状態にあるということなのだ。
これも、恋が次の状態に入ると、
熱病も終わって、「それぞれがよりよく生きる」ために
距離をおいての愛という関係がつくれるようになってくる。

日本に戻って、最初に考えたのは、そんなふうなことだ。
「がんじがらめ」になるたのしさ、
人を「がんじがらめ」にするたのしさを超えて、
たがいが、より自分の力を発揮して
生きられるようにしていくには、
たぶん「離れる」ことが大切なのだ。
郷ひろみの歌った『よろしく哀愁』という歌に、
「会えない時間が 愛育てるのさ」というフレーズがある。
(作詞は、安井かずみ)
親離れ、子離れ、恋人離れ、組織離れ、習慣離れ、
確信を持って愛しているなら、離れることが必要だ。

こんなことを考えながら、「ほぼ日」を思うと、
ものすごく大きな可能性の光が見えてくるように思う。
仲よく、しかもべたべたしない関係で、
大きな動きをつくっていきたいと思っています。

2002-01-06-MON

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