ITOI
ダーリンコラム

<木のうねりやねじれ>


木というものを、
なんだかいままでよりも意識するようになっていた。

ひとつの理由は、宮大工の小川三夫さんと対談して、
『木のいのち木のこころ』(天・地・人)
という本をあらためて読んだせいだ。
建築の材料になった木のことから、
山に生えている樹木のことに思いが至り、
樹木そのものの「劇的」ないのちに興味が出てきた。

もうひとつは、やはり永田照喜治先生と旅を重ねていて、
自然に「木の生き方」を想像するようになったことか。
太くて長い時間を生きてきた樹木でも、
病みながら立っているものもあるし、
老いてますます盛んという生命力を見せつけているのもある。
「あの木は、渦を巻くようにねじれてるでしょう。
ああいう木は、強いんです。
樹皮にコケとかカビとかも、ついてないでしょう。
生きているものには、つきにくいんです」
そういえば、たしかに表面が緑に染まっていない。
「ねじれ」は、まるでゴッホの描く樹木のようだった。

ゴッホの描く樹木というのは、これは
フランスで見たから思ったことだ。
日本国内で農業の現場を見学しているときには、
「岡本太郎だよ、こりゃ!」と、しょっちゅう言っている。
ビニールハウスのなかで育っているトマトの茎や葉が、
劇画っぽくいえば、
「ぐわぁあんぐわあああっ」と伸びているのだ。
縄文式土器の文様のようでもある。
おそらく、かつかつの少ない水分や栄養を求めて、
根も茎も葉も、必死でもがきながら育っているので、
すいすいと真っすぐになんか伸びられないのだろう。

木と人間をいっしょにするなよ、という気もするけれど、
やっぱりどうしても人間の成長との関係で
考えたくなっちゃうんだよなぁ。

すくすく伸びることって、見事に美しいようにも思うけど。
やっぱり、弱いし。「弱い」って魅力に乏しいんだよな。
しかめっ面しながら、もがきながら、
時には腹を減らしながら、最低限の栄養を求めて育つって、
ちょっと前までは「ハングリー」って言われたんだけれど、
このごろはそのコンセプトって流行らないでしょ。
でも、あると思うんだよ、それって、やっぱり。
なにも、ボクサーやら格闘技の選手じゃなくてもさ。
自分で稼いできたやつとか、
自分の頭をがんがんぶつけながら生きてきたやつとか、
やっぱり、ある意味、「よかったなぁ」って
言ってあげたい感じってあるじゃない。

「ぼくには夢がないんです」っていうつらさについて、
『調理場という戦場』のなかで斉須さんがふれてたけれど、
がんばる理由がみつからないとか、夢がないとかって問題、
よくよく考えてみると、簡単に解決できるんじゃないか?
つまり、『生きるのを保障されている環境』から、
外に出てしまえば、すっごく「生きたくなる」よねぇ。

いらない苦労はしないほうがいい、というのも、
ぼくが若いときからずっと言ってきたことなのだけれど、
じっと安定してようと思わないかぎり、
困難はもれなく付いてくるからねー。
安定の外側に興味を持つだけで、
壁にがんがんぶつかるのが普通ってものだ。
ひとつの方向に行きようがなくなるから、
しかたなく別の方向に根を伸ばしたり、
水がほしくて吸引力をつけていったりするわけだ。
援助や手助けがいちいちあてにされていたら、
きっと根も張らなくていいし、ねじれずに真っすぐと
大きく伸びるにちがいないんだけれどさ。

旅に出ろ、家出をしろ、誰もやったことのないことをしろ。
そういう挑発的な発言を、よく大人たちがするけれど、
それは、大人自身が持っている「ぶよぶよ感」に対する
後悔の念が言わせていることなんだろうなぁ。

あくまでも、樹木と人間は別物なのだろうけれど、
「生きる力」を獲得していくのに、
過剰な水分や栄養を与えることは、
よくないんだろうなぁとは、思える。
「あいつは温室育ちだから」なんて言い方もあるけれど、
温室のなかでも、水や肥料を最低限しか与えなければ、
ゴッホの絵のような、岡本太郎の彫刻のような
生命力にあふれた表現としての人間にはなれそうだ。

しかしねぇ、ねじれて使い物にならない木ってのも、
ありそうな気もするしねぇ。
使う場所さえ探せたら、どんな木でも使い物になる、
ということも、『木のいのち木のこころ』にはあったしなぁ。

さらに、きっと考え続けるのでありましょう。

2002-07-22-MON

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