ITOI
ダーリンコラム

<愛子とあゆ>

長くなっちゃったので、
ちょいと覚悟してくださいませ。

自分の馬鹿を平気で言えるようになって、
ほんとにラクになっているのだが、
ぼくは、昔からよく言われる
「自分に嘘はつけない」という言葉が、
よく理解できないまま何十年も生きていた。
馬鹿でしょ、自慢にゃならないけどさ。

自分に嘘はつけない、という言葉の意味はわかる。
だが、その言葉が、何を伝えようとしているのか、
なんだかどうもわからなかったのだ。
それが、この頃になって、やっと、
もしかしたらこういうことなのか、と思えるようになった。

「自分に嘘をつかない」という言葉について考えていたら、
ソルトレイクの冬期五輪のなかで、いい例が見つかった。
女子モーグルの上村愛子選手のインタビューだった。
上村選手の滑りは、テレビでぼくも観ていたけれど、
躍動感があって大胆で、ほんとうに見事なものに見えた。
しかし、採点は、入賞にも届かないまぁまぁの点数だった。
中継のアナウンサーは、採点に不満を漏らしていたし、
会場の人々も国籍を問わずにブーイングの声をあげていた。

距離や、高さや、時計ではかった時間を競うのでない
採点で順位の決まる競技には、よくこういうことがある。
ボクシングなどの場合には、
「ホーム・デジション」というような、
ある種の身内びいき的な採点は、当然のことのように
選手たちは戦略に折り込んでいるようだし、
前回のオリンピックでも柔道の判定をめぐって
一悶着あったことも記憶に新しい。

上村愛子選手も、さぞかし悔しい思いをしていると、
おおぜいの人々も想像したにちがいない。
しかし、競技も表彰も終わってから
テレビのインタビューを受けていた上村選手の言葉は、
そういうものではなかった。

「滑り終えた時には、いい滑りだができたと
 うれしかった。
 観客の反応も大きかったし、やったと思った。
 しかし、後でビデオをチェックしたら、
 速度を出しすぎていたために、不安定な部分が
 たくさんあったことが見つかった。
 運良くくぐり抜けられて
 偶然助かったというところもあったし、
 やっぱり、ごまかせるものじゃないなぁと、
 納得している」
というような発言だった。

もちろん、4年間の努力があったにもかかわらず
メダルを取れなかったというさみしさは、
なんとなく表情には見えていたのだけれど、
ほんとうに真剣にスポーツしている人の気持ちが、
よく伝わってきた。
観客たちも採点に不服らしくブーイングがあった、
とインタビュアーが水を向けたら、
「それは、うれしかったです。
 みんながそう思ってくれるような滑りができた、
 ということは、とてもうれしかった」
と、言っていた。

この一連の上村選手の発言、嘘がないのが気持ちがいい。
採点に不満な人々がたくさんいたということは、
「そうでしょう?キタナイですよね。
 私は勝っていましたよね!」と、
声を大にして叫ぶチャンス(?)でもある。
メダルを取れなかったという、ある意味での負けを、
認めたくなければ、そういうことをするのも人間だ。
しかし、あれだけの高度な競技を実際にしている選手なら、
自分の滑りのなかに含まれていた「問題点」に、
当然気づくだけの力量があるわけで、
それに気づいていても、
「私の滑りは、もっと高得点だった」と主張するのは、
やっぱり自分に嘘をついていることになるわけだ。

勝たないと処刑されるというような、必死の競技なら、
上村選手の発言は「甘い」と批判されるのかもしれない。
勝つために不可欠の汚さ、というものにも、
ぼくはもちろん大きな興味を持っている。
松原さんが『ぼくは見ておこう』の連載で書いている
カッティヴェリア(抜け目ないずる賢さ)も、
人間の持っているおもしろさだ。

ぼくの尊敬する藤田元司(元巨人監督)の、
「野球には、勝つよりも大事なことがある」という言葉は、
勝つことへの徹底的なこだわりを、
さらに突き抜けた上の段階を感じさせてくれた。

ただ、やっぱり、若い人が、
自分に嘘をつくことを平気になってしまったら、
もう、ただの「一時期だけよく勝った人」に、
なってしまうだろうと思う。
そういう意味で、上村愛子選手は、
あの有名なメダルを取れなかったのだけれど、
もっとすばらしい見えないメダルを、
これからも取り続ける可能性のある人だと思った。

ほんとうは、ここで上村愛子選手について書くのは
予定外のことだった。
浜崎あゆみさんのことを書くと予告までしていたのに、
オリンピックを観ていて、つい、
合わせて語りたくなってしまったのだった。

浜崎さんと話をしていて、
「おいおい、そりゃあんまりじゃねーか」、
ということがあったので、
そのことを書こうと思っていたのだ。

なんか、もう古い話なのかもしれないけれど、
インターネット関係の事件として、
「浜崎あゆみは許せない!」という運動があったという。
そういえば、ぼくもどこかでそんな話を読んだ。
知らない人のために、あらすじを書くと、
「浜崎あゆみが去年から今年にかけての
 カウントダウンコンサートで、
 前の席に座っていた身体の不自由な車椅子の人に向かって
 『あんたたち、立ちなさいよ、感じ悪いわねぇ』
 というようなことを言った」という書き込みがあった。
つまり、差別発言をしたということだったらしい。

ああ、この人も、いろんな攻撃を
受ける時期がきたんだなぁと、
さらっと思っただけだった。
事実関係を知ろうという意欲もなかったので、
そのまま忘れていたけれど、
本人から、そのあたりの話を聞くと、
実はけっこう気の毒なことになっているらしい。

自分の口から、そのことについての
誤解を解く機会がないので落ち込んでいるという。
事務所にしてみれば、
こういった問題が起こるたびに本人がコメントする
ということをしていたら、
もっと複雑な問題に巻き込んでしまうことを気づかって、
周囲で解決するのが仕事だと考えているのだろう。
それはそれで、ひとつの道だと思う。
タレントが直接にギャラの交渉をしないことも、
さまざまな依頼の断りを自分でやらないことも、
同じような理由だし、ぼくなんかでさえ、
周囲で解決してほしいことをいっぱい持っている。

ただ、「自分で言いたい」ことを言えないのも、
場合によっては、とてもつらいことだと思うのだ。

それは、上村愛子選手と比べてみたらわかる。
仮に、上村選手のメダルをなんとしても取らせたいという
国の方針かなんかがあって、
正式に「採点に抗議」なんかをしていたとしたら、
「採点に納得している」という上村選手の発言は、
してはならないことになってしまう。
自由に、自分に嘘をつかないで発言できたということが、
上村愛子選手をほんとうに解き放ってくれている。

浜崎さんの場合には、彼女のサイトなどを見ると、
その時の誤解を解くためのお知らせは、
社長名義で掲載されているので、
それで済んだといえば済んだ、ということになる。
ここには、浜崎さん本人から
ぼくが聞いたのとほぼ同じ内容が、
「ちゃんとした文章」で書いてある。
しかし、「ちゃんとした文章」では伝わらないことも、
やっぱり、あるのだ。

浜崎さんは、「なんで座ってるのよー、感じ悪いわねぇ」と、
いうようなことを確かに言っている。
きっとそれはライブの記録などにも残っているだろう。
ただし、それは、「ちゃんとした文章」で言うところの、
「関係者」に向かっての発言だった。
もっと自分の言葉でいうと、こうなる。

「友だちというか、わたしにとっては、
 もう東京に来てからずうううっと親しくしてる
 そういう人たちなんですよ。
 わたし、けっこう家族とか複雑だったから、
 その人たちが家族みたいなものなんです。

 でも、そういう人たちって、
 ああいう場所では照れがあって、
 みんなと同じように立って
 わぁわぁやってくれないんですよ。
 
 そういう身内的な人を前のほうのいい席に、
 招待しちゃってて、他の人たちに悪いなって。
 そのことがちょっと気になって、
 冗談めかして、立てよみたいに言ったんです」

そこに身体の不自由な人が混じっていたの?
と、ぼくは検事のようなことを訊いた。

「そっち側は、いないです。
 入り口に遠い側だから、いないはずなんです。
 身体の不自由な人の席は、
 出入り口に近い方なんです。
 それは何かあったとき危なくないように、
 そういうふうに席を取ってあるんです」

どうしてそこまで詳しく席のことを知っているのだ。
ぼくは、さらに訊いてしまった。
それに対しての彼女の答えは、書かないことにする。
ただ、彼女がそれなりに複雑な育ち方をしてきたせいか、
なにかに不自由をしている人たちについて、
とても格別な思いがあるということだけは、
書いてもいいだろう。

だからこそ、ここで問題になっている誤解について、
まったく逆の誤解を受けていることについて、
特別に落ち込んでしまったということらしい。

ああ、この気持ちは、いくら正式に
会社がコメントを出してくれても、
行き場がないままに澱のように溜まっているだろうな、と、
ぼくは思った。

おそらく、1万人以上の観客が、事実を事実として、
その目や耳で知りえたことなのだから、
やがて誤解は解かれることだろう。
しかし、浜崎さん本人の心のなかでは、
自分で言えなかったことの無念さは、残ってしまうだろう。
これは、「自分に嘘をつく」ことではないが、
「自分に沈黙を強いる」ことだ。
大人になったり、社会的に大きな存在になってしまった人は
みんなやっていかねばならないことなのだろうが、
実はけっこう辛いことでもある。

上村愛子さんと、浜崎あゆみさん、
ひとりは、自分がメダルを取れなかった理由を、
そのまま発言できている。
もうひとりは、自分が受けた誤解について、
それを解くのを人任せにせざるを得ないことを
悩んで気にしている。
まるまるホントのことを、自分の言葉で言えたら、
どんなにか気持ちがいいだろう、と思いながら、
きっと落ち込んだりしていたのだろう。

倍も年齢のちがうおっさんとしては、
そのままの気持ちでがんばれ!と、
声援を送りたいと思った。
めざすは、「自分に嘘をつかないすれっからし」だと、
ぼく自身は、考えているのですが。
そりゃ、無理かなぁ。

ずっと前にも書いたことがあるけれど、
数少ない何人かのともだちが
自分のことをわかっていてくれたら、
それ以上の人数にわかってもらうのは、
贅沢すぎることなのかもしれないなぁ。
RCサクセションの『君が僕を知ってる』って歌なんかは、
たったひとりだけの「君」にわかってもらえたら、
もうそれでいい、って歌詞だもんな。

2002-02-12-TUE

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