ITOI
ダーリンコラム

<身の丈で>

もう、小さい頃から、どれほど言われたかわかんないよな。
「背伸びするんじゃない。自分の背丈のままでいいんだ」
励まされる時とか、なにかがんばろうという時とか、
大人のひとたちが言ってくれるわけだよ。

だけど、言われているほうは、
背伸びしたくてしているんじゃないから、
そういう説教の意味がわからないんだ。
ごく自然に背伸びしているっていうか、
知らぬ間にこっそり履かされたシークレットブーツよ。

たとえば、文章を書くなんていうとき、
作文の授業でもそうだったと思うけれど、
かたくならないやつはいないだろうと思う。
書いたものに点数がつくんだもん。
その審査員は先生なんだけど、
どういうのがいいかなんて、書く方にはわからないから、
「勉強できそうな感じ」って文章を書こうとするわけだよ。
利口そうに見える単語を使ってみたり、
画数の多い漢字を使ってみたり、
いい人間に思われそうな考えを語ってみたり、
その逆にインパクト狙って悪ぶってみたりさ。
いやだったなぁ、作文って。

まったく自慢にはならないけれど、
ぼく自身は、作文でほめられたことなんか一度もないよ。
いやでしょうがなかっただけだ、作文なんて。
ほんとにわからないんだもん、何をどう書けばいいのかが。

ま、きっと誰でも同じようなもんだったんだろうけれど、
文章を書くなんてことを、いやがらないで育った人なんて、
ほとんどいないと思うね。たまにはいそうだけど。

身の丈のまま書けって言われたって、
いつも自分の身の丈っていうのは、
自分の理想の身の丈に届かないわけですよ。
特に若い頃、思春期の頃なんて、
太宰治の背丈(希望)のはずなのに、
単なる勉強嫌いの高校生の背丈っていう人々が、
ゴマンといるからね。
ほんとの身の丈なんて、知りたくないわけだよ。
「神様、わたしにわたしの真実を教えないでください」って
毎晩祈っているような毎日だからさ。
「でかぷりお」のつもりの「ぼく」だらけだもん。
いやなんだよ、身の丈がばれちゃうのが。

「おまえ、ちっちぇなぁ」って言われるのが、
いちばん怖いと思っている人が、
身の丈そのままに自分を表現するはずがないじゃないすか。

で、身の丈ってものは、肉体の身長とおなじように、
なかなか成長するものじゃなくってさ。
しょうがないから、オプションを着けていくわけだ。
「知識の量」とか、「ネットワークの広さ」とか、
「学歴」とか「賞罰」とか、「財産」とか、
「おしゃれ」とか「珍しい体験」とか、
各種ありますよ、そりゃ。
そういうものなしで裸になっちゃったら、
そりゃもう仙人だもんね。
でも、オプションがいっくら肥大化したって
身の丈は変わらないんだよなぁ。

ぼく自身が、オプションなかなか捨てられないもん。
「身の丈で」って、人に言うのがどれほどむつかしいことを
要求しているかは、よくわかるんです。

でもね、インターネットってものは、
かなりその「身の丈」主義をやりやすくしてくれるね。
後で、どう突っ込まれるか、どう馬鹿にされるかなんて、
毎日「ほぼ日」やっていたら、考えているひまないもん。
枝葉のところまでしっかり細密描写するより、
太い筆で、毎日からだごと絵を描いているほうが
インターネットに合ってるような気がするんだよな。
まちがったら後で訂正するとか、
足りないところは、読者や他の人に助けてもらうとか、
「わたしゃも少し背がほしい」ぼくでも、
他人を頼りにすれば、身の丈のサバを読まなくても
じゃんじゃん発信し続けられるのだ。

たぶん、もう「糸井重里」というやつの
あほさも足りなさも無教養も性格の悪さも、
ほとんど露わになっちゃってるんだと思うけれど、
もうあらためて昔のオプション引っぱり出してきて
くっつけるつもりもない。
これが、ぼくの身の丈です。
大きい人にはころころ負けるでしょう。
小さい人には、勝ったりもするでしょう。それだけ。

でも、この仕方なしに手に入れた身の丈主義って、
けっこう快感があるもんでねぇ。
やめられないんだよ。

座禅組んでも、山籠もりしても、
悟りだとか、自然体を身につけるのは難しそうだけど、
インターネットで毎日「ほぼ日」出してると、
いやでも身の丈以上のことができなくなっちゃうんだよね。

そういうねじくれた結果「身の丈」になったぼく
なんかに比べて、
若い読者のメールとか、ぼーっとした女子高生とか、
80歳のミーちゃんとか、
ほんとに素直に身の丈で文章を書いてるもんなぁ。
「背伸びしないで」とか作文教育していた先生より、
ずっと先を行ってると思うんだ。

ま、あとは、矢野顕子さんみたいに、
背丈そのものを伸ばしたくなるものなんですけどね。

1999-12-13-MON

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