ITOI
ダーリンコラム

<バボちゃんのこころ・押し込むこころ>

あいかわらず、ぼくはフジテレビの大キャンペーンに乗って
「ワールドカップ・バレーボール」を
横目で見たり真剣に観たりしながら過ごしているのだが、
いつの間にか『バボちゃん』に対する目が
優しくなっていることに気がついた。

『バボちゃん』って、みんな知ってますよね?
あの、バレーボールのボールに目を付けて手足を付けた、
愛らしいんだかなんだかわからないキャラクター。

テレビ中継されるスポーツのなかでは、
バレーボールは、特定のテレビ局との関係が深い種目だ。
事業として、スポーツを考えたら
「バレーといえばフジテレビ」のような
コンテンツを持つことはあってもおかしくない。
ポピュラリティーを持つ前のサッカーは、
東京12チャンネルとの関係が深かったし、
大相撲中継はNHKのほぼ独占である。

フジテレビがバレーボールと結婚した瞬間に
誕生したベビーが、『バボちゃん』だったと記憶している。
そのころのぼくの印象は、
「あわててつくったキャラクターだなぁ」
というくらいのものだった。
いかにも誰でも考えつきそうな擬人化で、
しかもネーミングは『バボちゃん』だっていうんだから、
いまならきっと「まんまやんけー!」と言われるだろう。

しかし、フジテレビはがんばった。
貫き通した。
昔からの人気者であるように、
アナウンサーたちは、『バボちゃん』の登場によろこんだ。
『バボちゃん』をセットのあらゆる場所に置きまくり、
何の違和感も感じてないという演技で、
タレントたちは『バボちゃん』を抱えながら話していた。

だが、視聴者は、無意識に感じていたろう。
「あの人形、かわいいかぁ?!」
「ちょっと、無理があるんじゃないのかなぁ?」
「誰もいらねぇよ、あんなもん」

・・・『魔法使いサリー』のよしこちゃんが
主役を演じる舞台を見るように客席は冷たい視線を
おくっていたのではないだろうか。

それでも、『バボちゃん』は出続けた。
のべ出演時間は、そこいらへんの売れっ子タレントにも
負けないくらいの露出量だったろう。
めげずに、ひたすら出まくった。
やがて時が経ち、『バボちゃん』は、
ほんとうに「昔からいたやつ」になってしまった。
おおげさに言えば、歴史と伝統が付加されてしまったのだ。
こうなってくると、「急造キャラ」の弱点は、
逆に「なんかだめなところが、かえっていい」という
長所として見られるようにもなってくる。
しょっちゅう会ってると、情が移るっていうけれど、
『バボちゃん』も、もう、昔なじみのようなキャラに
なってしまったのである。

どう?ためになったかしらん。
最高の品質のキャラクターを、完全につくりこんで
「世に問う!」みたいに売りだそうとしたって、
そう簡単に人は受け入れてくれるもんじゃないのよ。
休まずコツコツ、いつもいつまでもっていう姿勢で、
たいしたやつじゃないですけど、みたいな感じでいれば、
それなりに生きる道はあるんだよなぁ。
やり続けること、とか、地味な努力とか、
才能に自信のある(つもりも含めて)人は、
馬鹿にするけれど、そういうもんじゃないんだよね。

◆人は、愛し憎むだけでなく、許し許される。
(セフティ・マッチ銀言集
「銀の言葉と狼の言葉の章」より)

◆時に、“BE”は“DO”である。
(セフティ・マッチ銀言集
「英語などもええどの章」より)

毎日掃除をするとかさ、毎日「ほぼ日」を更新するとかさ、
毎日コメを食うとかさ、毎日おはようと声をかけるとかさ、
ロックじゃないことって、
ごちそうとしてもてはやされないけれど、
「主食」の座につけたりするものなんだよね。

そういえば、大きな代理店の優秀な営業といわれる人が、
いみじくも言ったことがある。
「うち(の会社)の強さってのは、特にはないんですよ。
ただ、<そこにいる>ってだけです」
これには、感心したっけなぁ。
新しい企画が生まれた瞬間、困ったことが起きたとき、
なにか大転換の場面・・・<そこにいる>人間、
<そこにいる会社>に、頼むに決まっているではないか。

目眩く才能も、触れたら切れるような刀も、
天井見ながらごろ寝しているうちに、
錆びついて使えなくなってしまうもんね。

若い時分の、ぼくの美意識は、
こんなふうに、かっこわるく鈍化して、
ぼくの総合力は強くなっていくのでした。
・・・ホントかね?


1999-11-29-MON

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