ITOI
ダーリンコラム

<みんなが同じじゃないということ>

今回は、この後、3日分くらいの仕事を
一晩でやらなくちゃイケナイので、
短く終わらせようと思うです。よろしく。

数百万枚も売れたCDがあるといっても、
日本中には、買ってない人のほうが多いわけだ。
これは、いじわるで言っているのではなく、
そういうもんだ、というだけだ。

ぼくは、自分でも不可解なくらいに巨人ファンだが、
他のチームのファンが山ほどいることは、
わかっているつもりである。

どんなテーマで、何を言っても、
その反対のことを思う人はいるものだし、
賛成といっても条件付き、という人だっているだろう。
「ほぼ日」の読者たちだって、
すべてにわたってぼくと同じ意見の人なんか、
ひとりだっていないだろうし、
「反対」の立場から毎日欠かさず読んでいる人だって、
いないとは言えないだろうと思う。

利害がぶつかる、
趣味がちがう、
生理的に反発する、
人生観がちがう世界観がちがう。
理由は、これまたまちまちだし、
わかられたくないから言えない理由だってあってもいい。

こういう状況のなかでのルールは、
どうしたらいいのだろうか。
親族を中心とした「村社会」だったときには、
ひとつの規範をみんなが守るということで、
その社会は安全に営まれてきたのだろう。
しかし、いまは、そうでない社会に、
ぼくらは生きているわけだ。
「なにが正しいかよく考えろ」と言われたところで、
そのやっと発見した正しさを揺るがすような意見だって
後で出てくるかもしれない。
それぞれの個人の、頼りない考えが、
「突っ込まれる」ことを怖れて、
ますます曖昧になって行かざるを得なくなる。

ひとつの考えに批判を加えることは、
ひとつの考えを生み出すことよりもずっとたやすい。
海水浴の波打ち際でつくる「砂の城」と、
そいつを蹴っ飛ばすいたずら者とを比べたら、
実感でわかることだと思う。
壊されるのはコワイ。
だから壊されにくい可能性を追求したくなる。
で、どうなるかと言えば、
「大多数が認めたもの」を、自分も選べば、
壊しに来る「反対者」が少なくなるので
確率的にはより安心だということになる。

あ、ここでさらに慎重に言わなければ
いけないことがあった。
大多数が支持するものやことを好きだからといって、
そのこと自体が責められることではない。
自分が、少数派的な好みの持ち主だからといって、
冒険的で立派だというわけではないように、
多数の人々と同じ意見を持っているから、
自分の考えのない付和雷同的な人間であると言われる
筋合いはまったくない。
700万枚だか売れたアルバムを、
ぼくも持っているけれど、それは恥ずべきことではない。

短く済ませようと思っていたのに長くなったけど、
言いたかったことは、簡単なことだったんだ。
自分と同じ考えの仲間がどれだけ多くいようと、
そうでない人も、とっても多くいるのだし、
みんなが同じ考えに納得することなんか「ない!」
という、当たり前の事実を
わかりあいたいね、ってことだ。

これからの時代、もっといろんな考えが出てくるし、
みんなの考えが揃わなくなるような状況が、
もっともっと増えてくると思う。
(それだって、そうは思わないって考えもあるだろう)
その時に、どんなに誠意をつくして論争しても、
解りあえるまで話しあっても、
みんなが「そのとおり」と思うような結論は、
出てくるはずがないと思う。

ルールは、たったひとつ、なんだと、ぼくは思う。
「別の考えを持っている人と、どうつきあうか」
それだけなんだと思う。
もう会いたくない、とか、
この話はここでやめよう、とか、
両方の言い分を譲り合うとか、
いままでだったら「妥協」と非難されるようなことこそが
とても大事になってくると思うのだ。
牛を食ってはいけない人と、
豚を食ったらいけない人とが、
どう論争したって解決なんかあるはずがない。
「そういう人がいる」ことを、
たがいに認めあうことだけしかないのではないか。
牛を食わない人が、世界中の牛食いを殺戮しても、
かならず、牛食いはまた現われる。
逆に、ステーキハウスにわざわざやってきて、
「どうしてこの店は牛を食わせるんだ」と怒る人だって、
いないわけじゃないと想像する。

みんなが同じ正しい考えを持てるはずだと考えるのは、
どんなに正しく見える考えだとしても、
ぼくには賛成はできない。
(むろんこの考えに賛成でない人も大勢いるだろうけど)

うおお、時間が、過ぎていく・・・。
どうなるんだろう、明日の俺?!

1999-09-13-MON

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