ITOI
ダーリンコラム

<運という名の悪女>

おそらく、こういうことについては、
大昔から何度も何度も語り尽くされてきているのだろうが、
「勝負事」にどうしてもついてまわる「運」の要素に、
ますます興味がでてきている。

この頃、「ほぼ日」でも連載がはじまったから、
少しずつおなじみ感もでてきたと思う
「モノポリー」というボードゲームでも、
運と技の割合はどれくらいか、について、
プレイヤーたちがどれだけ語り合ってきたことか。

初心者のうちは、極論すれば「運・100%」だと考える。
だんだん技術が向上してくると、
これも極論だが、「技・100%」だと思いたくなる。
サイコロを振って進行するゲームなのに、
いつでも強い者がいる。いつも上位の成績を残す者がいる。
よくゲームを観察していると、
彼は「運が悪い」ようにさえ見える。
だから、中級から上級のプレイヤーになると、
「運と言われているものを徹底的に分析して、
運でないもの(技)として、向上させていこう」と、
考えるようになるものだ。
いわば、あらゆる要素の言語化をしていって、
保存・再生可能なテクニックとして扱っていこうと、
思うようになるのだ。
こういう時期には、たとえば「モノポリー」の勝敗を
決定づける要因は「運20:技80」くらいのことを、
イメージするものだ。

ところが、もっともっとゲームをやりこんでいるうちに、
上級になりたての頃にイメージしていた比率が、
逆なのではないかと考えるようになる。
「運80:技20」くらいではないかと思いはじめる。
まったく逆転してしまうのだ。
技の追求をあきらめてそういうふうになるのではない。
そんなふうに、リアリティを持って感じるようになるのだ。
特に、相当な力量を持っている人にかぎって、
「いやぁ、運が99%じゃないですか」などと、
たぬきオヤジなセリフを吐くようになる。
これはこれで彼のリアリティなのだから、嘘じゃないのだ。

先日、麻雀好きの井上陽水さんと話していたら、
やっぱり、「運がほとんどでしょう」というようなことを、
ちょっと皮肉っぽい表情で快活に語っていた。

野球では、「ID野球」という言葉とともに、
「運だと思いこんでいた要素」を、どれだけ解体できるか、
というようなスローガンで采配をふるっている監督がいる。
しかし、あれほどの人だから、
「運80:技20」を思っていないはずはないだろう。
あの人が誇張しながら表現していることは、
「技20」の分から、どれだけ「運という不純物」を
排除するかを言いたいのだと、ぼくは想像している。

闘いの現場では、「運」を語れない。
味方や部下や、組織そのものに、
壊滅的な被害を与える可能性もあるし、
「説明」できないことを、他人にやらせることは、
とても難しいことだからだ。
しかし、「運」は、ほんとうに大きな要素なのだ。
もっとややこしいことに、「運」は、
用意周到な人々のところにやって来てくれないものなのだ。
「技」だけを信じている人たちの持っている、
「豊かでない感じ」というものを、ぼくは好きになれない。
かといって、運を頼みにして、
船ごと沈んでいくようなリーダーを、誰も信じやしない。

昔からの偉大な宗教家が、必ず「奇跡」を行なったのは、
運と技との矛盾を、むやみなかたちで解決するための
唯一の方法がそれだったからなのだろう。
ぼくらが、宝くじで3億円当てていたら、
「ほぼ日」は歴史的な宗教として再出発したかもしれない。
『不合理ゆえに我信ず』って、すごい名文句だなぁ。

すっげぇ、まとまらない文章だけど、出しちゃえ!
「奇跡」が起こって、
「イトイさん、あの文章よかったです」とか、
言われるかも知れませんからね。

1999-06-28-MON

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