ITOI
ダーリンコラム

<ゲーム時間の設定>

今日はいつも以上に、しゃべる以上に書きっぱなし。
口より指のほうが遅いけれど、
話の飛び方は似たようなものです。
だいたい、今日は自分でも整理できてないことを
書きたくなって書いているので、
いつも以上に、適当に読み流してください。

「ほぼ日」のなかにも『日本モノポリー協会』の
出店ページがありますけれどね。
モノポリーってゲーム、いまは日本では90分時間制で
やることが多くなっていますが、
公式戦でも80分でやっていた時代が長かったんですよ。
たった10分と思うかもしれませんが、
この10分のちがいが、戦略の組み立て方に
もーのすごく影響するわけです。
早い話が、80分経った時点で負けているけれど、
90分のラストで逆転している予定で
ゲームを組み立てていることだってあるわけですからね。

野球にたとえたら、もっとわかりやすいか。
9イニングでゲームをやっているものが、
8イニングになったら、
抑えの投手が8回に出てくるわけで。
そうなると、投手力のいいチームはもっと有利になる。
と、単純に言えないのは、
打線の方の戦略も、もっと大胆な賭博性の強いものに
変わっていくだろうからで・・・
ああキリがなさそうだ。

前々回のタイソンの試合みたいに、
3分のゴングが鳴った瞬間に放ったパンチで
相手が倒れちゃって反則負けなんてことも、
1ラウンドが3分でなければなかったことだし。

とにかく、ゲームってのは時間との関係で、
それぞれの選手やチームの戦略が
大きく変わってくるってことですよね。

そう考えるとさ、「サドンデス」という
時間無制限で、どっちかが先に点を入れたら終わり、
というようなゲームって、
理論的には「永遠」に続く可能性があるわけですよね。

さて、やっと本題に入りますが、
ぼくたちは、簡単に「永遠」とか「永久」とか、
「無限」とかについて考えすぎてはいないだろうか?
『ほぼ日永久紙ぶくろ』なんちゃったりしてね。

口では永遠とか永久と言っているけれど、
ほんとは、人間が永遠を感じることなんかできないし、
それぞれの人や組織が、現実的には、
「仮の永遠」を設定して、
いまの戦略を立てたり、動機をかきたてていたり
しているんだと思うのですよ。

だいたい、地球そのものの寿命が50億年
だっていうわけでしょ。
既に地球さん、26億年だかの時間を生きてきたので、
その約2倍くらいの寿命かぁと、
図式的には認識できるんですが、
ほんとはまったくわかっていないです、人間は。
永遠なんて、数学の無限の概念と同じように、
あることになっているけれど、
ない、と考えても生きていけるってものだと思うんです。
だから、中国なんかでも、
時間の長さをたとえ話にするのにさ、
(数字や名詞の部分はぼくのでたらめっすよ)
「千年に一度、天から降りてきたお姫様みたいなもんが、
クジャクの羽根かなんかで、石をひと撫でする・・・
それを繰り返して、石がすっかり無くなる時間」とか、
とんでもない説明をしたりしているけれど、
それだって、あーた、永遠じゃないわけだ。

「君が代」という歌で、千代に八千代に、という歌詞が
ありますけれど、1000年とか8000年とか、
もう人類経験済みですから、たいしたことはない。
それより困るのは元号ですよ。
いまの総理大臣の小渕さんって人は、
『平成』って書いた額を掲げて
世間にデビューした人だけれど、
もし、永遠に元号ってものが続くとすると、
いずれは、もう、ネタが尽きるわけですよ。
よさそうなところから見繕ってどんどん消費しちゃうから、
あんまりなぁ・・・って言葉も使わざるを得なくなる。
『平成』が重みがないとかなんとか言ってられなくなる。
要は、文字の順列組み合わせだから、
あらゆる漢字を選び組み合わせ、文字数も増やし、
ひらがなも許し、カタカナも混ぜていって、
にっちもさっちも行かなくなるはずなんです。
永遠を考えた場合にはね。
いままで避けていた言葉だって「元号」に
使わざるを得なくなるんですよ、理論的には。
ドリフが言うようなイケナイ言葉とか、
困ったちゃんな商売の立て看板に使われている言葉とか、
人をののしる言葉とか、元号候補として、
いままで余ってきた言葉を、使わないといけなくなる。
もちろん、「吉田君元年」とか、「冷蔵庫元年」とか、
あんまり元号にふさわしくないけれど、
まぁしょうがないかという言葉も、使い切った後ですよ。
具体例は書かないけどさ、もちろん。
でも、そんな時代がくるとは思えないでしょう?
感覚的に、ないと思いますよね。
つまり、それが、永遠ということをホントは認めてない
人間というものの自然な感覚なんですがな。

やっぱり、人間って動物は、いくら大脳が発達しても、
自分の生命の寿命を基準にしてしか、
時間を考えられないんだと思うんでしゅう。ばぶー。
「孫子の代まで」とかなら想像力が追いつくし、
言葉ができてからの人類史の長さについては、
感覚的につかめないながらも、
わかったような気になれる。
しかし、ほんとは、全然わかってなんかいない。
理解しているようなふりはしてても、
腑に落ちていないんですよ、誰も。

それはおまえだけだろう、そんなバカと私を比べるな、
というお利口な方々もいるとは思いますが、
そうたいしては変わらないと思いますよ。

んで、ね。
何が言いたかったのかというと、
「そんなに先の先までの安心を求めていたら、
いま現在が、先の先ってやつの奴隷になっちゃうじゃん」
という、刹那主義的にも無責任にも聞こえる考えなんです。
理念的にはあるけれど、実際にはありもしない永遠とか、
真の真実とか、究極の理想とか、永続的繁栄とか、
絶対的な安心とか、んなもん、嘘にきまってんじゃん。
時々、遠き夜空の星を見るように、
「2000億光年の孤独」を感じたりすることを、
否定しているんじゃないですよ。
それはそれでいいの。感じようとしたり、
信じたくなったりするのは、大好きさ。
だけど、現実に命に限りのあるぼくら人間が、
神さまの代理みたいな顔して、
何は間違ってるだとか、何はましだとか、
青筋立てて言ってるのは、かなわんなぁってことです。

野球の試合は9イニングで、終わり。
そういう試合を1チームが135試合して、
1シーズンは終わり。
終わり終わりの刻みがなかったら、
おもしろくも何ともなくなりますぜ。

・・・ってのと同じように、
いまの季節にふさわしい言い方をすれば、
受験生は志望した学校に入ったら、一試合終わり。
就職先探していた大学生も、会社に入って一試合終わり。
カメラマンになりたくてなった人も、一試合終わり。
それが、勝った試合か負けた試合かはともかくね。
たぶんビル・ゲイツって人だって、
この前、経営引退とか言ってた時に、
ひと試合終わりにしたんじゃないのかなぁ。

要するに、世の中の不自由のほとんどが、
ゲームの終了を設定してないってこと
に原因があると思うんですよ。
「いまは勝ってる」とか「まだ負けてない」とか、
言うのも思うのもいいんだけど、
いつ、どうなればいいのか、
そのゲームセットのイメージがわからないんだよなぁ。
ま、もともと資本主義ってものは、
なんとなくの永遠を前提にしているような気もするけれど、
その「なんとなくの永遠」に対する疑いのほうが、
ぼくには気にかかってしょうがない。
もちろん、社会主義とかも、
資本主義のなんとなくの永遠を元にしてるだろうし、
「じゃぁ、人類滅亡の日をみんなで決めろっていうのか?」
とからまれたら、そういうわけじゃないんですがと
謝っちゃうんですけどね。

ぼくのビジネスイメージの、
「ノーリスク・ミディアムリターン」とかも、
なんとなく無限とか永遠に対する疑いがあるようだし。
きっと、自分にとっては、
とても気にかかる何かを語りたがっているんでしょうが、
読んでくれた人には迷惑だったかもしれませんね。

昔の流行歌で、
「どうせわたしを だますなら
  だましつづけて ほしかった」って歌詞があったけれど、
それ、惚れた男に言っているんじゃなくて、
神さまに言っているんだと考えたら、
おもしろいなぁとか、夜中に思いつつ、
これ、書いてます。
人生はワンツーパンチと言う前に、
とにもかくにも一回しかないんだから、
のびのびやりたいものですねぇ・・・って、
そういう若者っぽいことを言いたかったのかな?
それとも、人間は死ぬぞメメントモリってことか?
みんな元気でねってことか?
わからなくなりました。
ま、いいっか。

これ、このまま「コンビニ哲学」に投稿しちゃおうかな。
どうも失礼いたしましたっ!

2000-02-14-MON

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