ITOI
ダーリンコラム

<「作品」というものについて>

あんまり整理できてないけれど、
けっこう長いこと考え続けていることを、
思いつくままに、ここにメモしておこうと思う。
「ほぼ日」のこの先の仕事のしかたにも関わることだ。

いま世の中にあるもののほとんどは、
大量生産品というやつだ。
それは、ひとつひとつが、
ほとんど同じにできていることで、
平等やら公平を表現している。

大量生産品には、もちろん、その使命がある。
どこの誰にも、一定の品質、一定の満足を、
確実に提供できるというのは、すばらしいことだ。

しかし、それだけではつまらない。
均等、平等、公平で、
価値も同じようなものに囲まれた世界は、
のっぺらぼうで単調で、変化に乏しいともいえる。

昨日と今日がちがうように、
いま住んでいる土地と旅先の町がちがうように、
おまえと俺がちがうように、
いろんなものがちがうことについても、
人は欲しているものだ。

だから、いくら便利で安くて使いやすいものが
巷に氾濫しても、それじゃあ満足できないなにかが、
みんなの気持ちに残ってしまう。
人間は「のっぺらぼう」になれないってことだよな。

大量生産品の反対側にあるのが、
「芸術」かもしれない。
自分には、なにが芸術で、どれが芸術ではないか、
というようなことが
しっかり語れるとは思えないので、
そういうものがあるというだけにしておく。

しかし、大量生産品と、芸術の間には、
ものすごい距離がある。
そこの間に、「作品」というものがあるのだと思う。

「作品」は、均等やら平等とはあんまり関係がない。
同じであることよりも、
効果や機能が同じくらいなら、
ひとつずつちがっているほうがよろこばれる。
また、「作品」は、
いくらでもつくれるものではない。
ものによっては、
かなりたくさんつくれる場合もあるが、
「ここまでかな」というところで、
止まることになる。

こんなふうに言うと、「作品」を、
いわゆる「芸術作品」と同じように
イメージしてしまうかもしれないけれど、
ぼくの考える「作品」というのは、
もっと「街」にたくさん存在しているものだ。

ある水準の技量を持った料理人が、
ひとつずつ一定の判断をして出す料理は、
「作品」と呼んでいいのではないだろうか。
また、ある水準の美容師が、
ひとりずつのお客さんに加える美容技術も、
「作品」と呼べるかもしれない。

むろん、「作品」によって、
商業的な価値は、
ピンからキリまでということになる。
ある人にとって高い価値のある「作品」でも、
それは「商業的価値」につながらないことだって、
いくらでもあるだろう。
それでも、「作品」は「作品」であって、
大量生産品とはちがう活動をするのだと思う。

ぼくの個人的な予測としてではあるけれど、
この先、いま存在するたくさんの大量生産品が、
どうしていいかわからない場所に
迷い込むと思っている。
そうなる予感は、あちこちにある。

大量生産品が、ロスの多いマーケティング迷路を
ぐるぐるしている間に、
あちこちで「作品」が育っていくのではないか。
それが、ぼくの予測の中心であり、
たのしみである。

先週末に、「ほぼ日」でも紹介した
木曽ツインズの「作品」
展示即売する店が開いた。
週末の2日だけのオープンだというけれど、
おそらく、そこにあった「作品」は
売り切れているか、早晩売り切れると思う。
なぜ売れるかといえば、「作品」がよいからである。
そして、
「作品」の数が少ないから売り切れるのだ。

前に、「ほぼ日」紙上で、
彼女たちのバッグを販売したことがあった。
申し込みが多かったら抽選で販売、という
少々変則的な通信販売だったけれど、
たった38点のバッグに、申し込みが100倍もきた。
商売をしている人ならあきれるかもしれないけれど、
求める人ぜんぶに「作品」を渡せたら、
売上げにして4000万円になったということだ。
でも、実際には約40万円の売上げで終わった。
木曽さんたちは、とてもよろこんでいたし、
「ほぼ日」も、金銭的な利益はないし、
撮影やらなにやらのコストはかかったけれど、
実にうれしい仕事だった。

木曽ツインズのバッグは、
一日にひとつのペースでできるようなものではない。
たしか、展示即売会の準備に数ヶ月かかっていたし、
その会場の費用などもあったから、
商業的には、まだまだ考える余地が多い。
たぶん、失礼ながら、
日給一万円のアルバイトよりも、
この「作品」づくりをしているほうが、
儲からないのではなかろうか。
しかしそれでも、「作品」が活動して、
発揮した力というものは、
「幻の4000万円分」以上もあったのだった。
ぼくは、そう考えている。

こういうことが、たくさん起こってくると思う。
大量生産品として、大量の宣伝と、
大きな流通網を使うCDという音楽パッケージは
売るのが難しくなっているけれど、
いいライブコンサートには、しっかりお客さんがいる。
そして、だからといって、
そのコンサートがとても儲かっているわけではない。
そんなふうな感じだ。

大量生産品は、どんどん迷路に入りこんでいく。
豊かな時代の人々は、「作品」のほうに興味を示す。
そして、いま現在の売上げだとか、
総合的な影響力だとかは、
大量生産品のほうが圧倒的である。
それでも、時代が目指す方向は「作品」の側なのだと、
ぼくは考えている。

とりあえず、今日はここまでにしておこう。

それはそうと、
これまで、もののことをグッズと言ってきた。
グッズ(goods)というのは、
英語の「よい(good)」からきたことばだと思う。
ま、「いいもん」ということから、
「品物」とか「商品」という意味になったんだろうね。
それに対して、いま、
グッズということばで表現しきれない
「作品」的な意味を持つものについては、
「オンリーズ(onlys)」というのはどうだろうかね。
「ひとつずつ、が、それぞれの価値を持つ」という意味で、
けっこう当たってるような気がするんだけど。

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2007-05-14-MON

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