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ダーリンコラム

<あたえる技術・愛する技術>

「愛される技術」だとか、「もらう技術」だとか、
「獲る技術」だとか、へたしたら「盗む技術」だとか、
そういうものは、世の中に満ち満ちているのだけれど、
その逆というのは、あんまり見かけない。

それはつまり「愛する技術」だとか「あたえる技術」、
「ほどこす技術」などというもののことだ。
いや、セクシーな意味の「愛する技術」なら
本も出ていたりするんですけどね。

雑誌やら書籍でも、ほとんどが「もらう側」の発想で、
どうやってより多くより確実に、「もらうか」について
教えてくれている。
「あたえる側」が、どうやってじょうずにあたえるか、
それを伝授してくれる記事は、ないような気がする。

でも、「もらう」ことに、技術が必要なように、
「あたえる」のだって、技術が必要なのだと思う。

たぶん、だいたいの人が、
人にプレゼントする難しさを知っているだろう。
自分が贈ったものが、
相手にあんまり喜ばれてないのを知って、
相手を逆恨みした人だっているかもしれない。
「あたえる」ことのなかには、残念なことに、
相手から嫌がられることだってありうるのだ。

また、とても多くの人が、
誰かに対して、どうやってその人を愛するか、
わからなくて悩んだことがあると思う。
なにも男女の関係ばかりではない。
親と子の関係でも、師弟の間でも、友人についてでも、
愛は生れているはずである。
子どものときだって、好きな同級生がいたり、
もっとあの子と仲よくしたいという感情があるものだ。
それが、うまくいくこともあるし、
うまくいかないこともある。
親が子どもを愛するのだって、うまくいくとはかぎらない。
逆に子どもが親を愛するのも、同じように難しい。
こちらが勝手に愛しているわけなのだから、
相手が「いやだ」と言うのは、まちがったことじゃない。
「愛しているのに、愛してくれない」と考えがちな人は、
基本的にまちがっている。
つまり、その人は、
「愛する」ことはもともと難しいものだ、
と、知らないのだろう。

「あたえる」ことの難しさと、大切さについて、
「愛する」ことの難しさと、大切さについて、
誰からいつ教えてもらえばよかったのだろうか?
学校の教科書には、そんなことは書いてなかった。
先生も、そういうことは教えてくれなかった。

あえて考えれば、それは
親が教えるものだったのかもしれない。
ことばで教えるということでもない。

親は、子に、とにかく「あたえる」ことばかりだ。
子が何もまだ考えられないくらい幼い頃から、
親は「愛する」こと「あたえる」ことをやり続ける。
そこで、「愛される」ことの実感を知った子どもは、
きっと、「そういうものなのだ」と知るのではないか。
のちに、「じょうずにあたえられて」うれしかったとか、
「不器用にあたえられて」反発したとか、
「あたえる」ことの技術があったのだと、理解する。
そうして「あたえる技術」「愛する技術」を
倣う(習う)ようになるのだと、ぼくは考える。

「もらう技術」「愛される技術」が、
不毛なまでに発達してきたいまの時代に、
いくらその技術を磨いても、キリがないのではないか。
ふと、そんなことを思った。

「あたえる技術」は、例えば、人が親になったときに知る。
赤ん坊に乳をあたえることにしたって、
いつ、どんなふうに、あたえたらいいのか、
それだって技術だからね。
また、誰かを好きになって、
どうしたら相手がよろんでくれるのかを
真剣に考えるようになって、技術を身に付ける人もいる。
‥‥ここまでは、常識的にわかる人も多いだろう。

もうひとつ、「仕事」のなかに
「あたえる技術」「愛する技術」の教場があるのだ、と、
考えてはどうだろうか?
たしかに、これまで「ビジネス」といえば、
どれだけ上手に利益を「もらう」か、
他の競争相手のもっている市場を「うばう」か、
どうやってお客さんから注文を「とる」か、
消費者に「愛される」ためにどうするべきか、
という文脈で考えられてきたとは思う。

しかし、お金のかたちでもらう利益以上の価値を、
相手に「あたえる」にはどうしたらいいか。
サービスを受ける側の人たちを、「愛する」には、
どういうことが考えられるか。
そういう視点から仕事をしている人は、
すでに現実にたくさんいると思うのだ。

仕事の場所こそ、「あたえる技術」の教場だと、
決めてしまって、何か都合のわるいことがあるだろうか?

「くれくれ、もっともっとくれくれ」が、
みんなのもっとも大きな声である、
というような社会が、幸福であるはずはないだろう。
逆説的に聞えるかもしれないが、
「あたえる技術」の切磋琢磨こそが、
磨いている本人もたのしいし、
他の人たちをもよろこばせる「仕事」なのではないか。

いま、インターネット上で、
情報に関しての「あたえる技術」が、磨かれつつある。
これをさらによくしていくためには、
「もらう」側に立っていた人が、
「あたえる」を練習しはじめることなのではないか。
そんなことを、考えている。
「もらう」と「あたえる」は、ひとりの人間のなかでも、
静脈と動脈のように、両方がバランスよくあるものなのだ。
それが、健康ということなのだと思っている。

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2006-05-22-MON

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