COOK
調理場という戦場。
コート・ドールの斉須さんの仕事論。

第21回 同じ空を、違う荷物で行き来する。


おそらく、今週末には、単行本
『調理場という戦場』の先行限定発売が終了いたします。
ご愛読を、ほんとうにどうもありがとうございます。
書店に並ぶよりもかなり早く読むことができますので、
みなさん、ぜひこちらの先行発売のページ
お買い求めくださいませ!(損はさせません!)

みなさんからのメールは、
斉須さんにもお届けしています。
いつも、ほんとうに真剣に読んでいらっしゃるのですよ。
斉須さんからの、ほぼ日読者へのメッセージは、
近日中に、ご紹介してゆきますね。

「本が到着するのがうれしくて、
 内容の抜粋紹介を読むのをやめています」
というメッセージさえいただく時期になったのを、
ほんとうにうれしく思います。
もし可能なら、ぜひ、
一気読みで読んでいただきたいぐらいなんです。
280ページほどあるのですが、
そのまま浸かることのできる世界が、待っていますよ。

では、今日も、ほんのすこし、
単行本の中からの抜粋紹介をしてまいります。
フランスでの12年をおえて、
日本に帰るという時のことを語っている部分です。





<※第6章より抜粋>


フランスでは、通算で一二年間、
「ただただ、レストランで働くだけの日々」
を過ごしたことになります。

ふり返れば、あっと言うまでした。

必死になって過ごしているうちに、
最初の出だしである
「首を洗って待ってろよ」
という姿勢が自分の身体に染み渡るに
は十分な時間が経ったのでしょう。
料理が血肉になっていきました。

料理のことをどんどん好きになっていき、
のめりこんでいったのです。
最初は日本での洗い場の悔しい経験を糧にして
「意地だけで働いていた」のですけどね。

その頃は単純に
「なりたい自分自身になって帰ってやる!」
といった気持ちを通したかっただけだった。
尻尾を巻いて帰ってから
「あのう……首を洗ってって言ったけど、
 なしにしてくれませんか」
とは言いたくなかったのです。
ぼくの覚悟を冗談にはしたくなかったと言うか。

一二年の間に、フランス料理を学ぶ
日本人にもたくさん会いました。
いろいろな人がいろいろな夢を描いてパリの空の下にいた。

夢を現実にして栄光につつまれて
はばたいた仲間もいれば、
ちょっとしたつまずきが許されず
落伍していった人もいます。

料理を目指す人にとって
フランスは花のように美しくあでやかだけど、
その裏にはどろどろと
恐ろしい落とし穴がたくさんありました。
しっかりしていなければ、
寂しさの穴が口をあけて待っています。

自分ではどうしようもない
人種差別という穴に転げ落ちてしまうかもしれません。

思いもかけぬ事情から望みを捨てざるを得ない人も、
少なくはなかったのです。
お金に窮してしまい、日本料理屋の
アルバイトのつもりが本業になってしまう。
フランス人女性と結婚して子どもができ、
パリに生活の基盤を作らざるをえなくなる。

ぼくは憶病者ですから、そうやって
お金や誘惑におぼれてしまうのがこわかったですね。
そうならない保証はない。

当時ぼくがこころがけたのは、
きちんとした生活のペースを持つということでした。
給料は安くても、着るものは安物でもいい。
だけど、住まいだけは自分なりの
立派さであってほしいと思ったのです。
ですからパリでのぼくの住まいは、
薄給の割りにはちょっと立派でした。

ベルナールと奥さんが奔走してくれたおかげで
借りられた大きな部屋。
流されてしまわないためには大切な空間でした。
ぼくの子どもがリビングルームを
三輪車で走りまわっていたことを覚えています。

東京には、
妻や子どもや家財道具を抱えて帰りました。
行きのフライトでのぼくは、
ほんとうに何も持っていなかった。
身ひとつでやってきた。
だけれども、二度目に飛行機に乗る時には、
ぼくの手に抱えるものはこんなにも増えている。
行きに持っていたのは、
母親が最初のお店のオーナーに渡すように
持たせてくれた、お土産の「ゆかた」ぐらいだった。

同じ空を、ぜんぜん違う量の荷物を持って行き来する。

「これが人生というものなのだろうか。
 不思議でおもしろいものだなぁ」

そう感じながら、帰ってきたのです。



             (『調理場という戦場』より)





(※こちらの単行本先行販売ページも、
  ご覧になってくださるとうれしく思います)

2002-05-30-THU

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