COOK
調理場という戦場。
コート・ドールの斉須さんの仕事論。

第18回 この掃除機は、自分なんだ。


『調理場という戦場』の
先行発売が好評で、たいへん嬉しいです。
みなさん、どうもありがとうございます!
ぜひ、先行発売のページを、訪れてくださいね。

ここ数日のあいだ、さまざまな店にいる時の、
斉須さんのコメントを、お届けしてきました。
今日はその中でも、3店目。
斉須さんにとってほんとうに光り輝いていた
レストランに働きはじめた頃の様子を、
抜粋紹介でお送りいたしますね。





<※第3章より抜粋>


ヴィヴァロワは、パリの一六区にありました。
一六区は、高級住宅街です。
それぞれの邸宅は、とても大きい。
どの壁も重厚で彫り物がしてある。
政財界の要人ばかりが住んでいる土地。
ブーローニュの森などが近くにあり、
緑もすごく多い地域なのです。暮らしやすい。

八階か九階建ての高級マンションの一階が、
ヴィヴァロワという名前のレストランになっていました。
ぼくが最初にお店を訪れた時には
「これは、銀行か何かだろう」
と思って、うっかり通り過ぎてしまったほどの、
あくまで落ち着いた外観です。
窓や入り口はガラス張りです。
絹のように薄いダークイエローのカーテンがかかっている。
入ったとたん、黄色いテーブルクロスと
白い北欧風の椅子が目に飛びこんでくる。
壁や照明はクリーム色です。

室内の装飾品は、
どれも落ち着いていて、高級感に満ちている。

そして、とてつもなく清潔なお店でした。
チリひとつありません。
もう、いるだけで気持ちがいいのです。

ぼくはここで働くことになるのか。
これが、三つ星レストランなのか。
武者震いをしていました。

調理場の清潔さにも、圧倒されました。
ステンレスが輝いている。
白いタイルがつやつやと光っている。
それまでは木くずを
床にまいていたような職場だったから、なおさら
「明らかに違うところに来ているのだ」
ということを実感させられました。鼓動が高くなる……。
「果たしてぼくは、ここで通用するのだろうか?」
最初は、とてもこわかったのです。

それまでは夢だけを見ていた日々が長かった。
いつか三つ星レストランで働きたい。
その夢が、こんなかたちで不意に叶ってしまった。
今日から実際にスタッフとして働くことになる。

ここまでは、来た。

しかし、これからが本当に
真価の問われる時期になるのです。
最初の数日は、何がなんだか
わからないような気持ちで過ごしていました。
はじめは、まだ、この夢のような世界に
フワフワしていたのではないでしょうか。

ぼくは最初はとても緊張して毎日を過ごしていました。
それまでの田園生活から一変して、
パリの三つ星レストランに来たわけです。
「こんなすごいお店で、ぼくはやっていけるのだろうか?」
最初は、都会の環境と
お店のロケーションに飲まれないように、
ぼくなりに必死でした。
いつも全力を尽くせるように、からだには力が入っている。
職場のすごさに、心のそこでは
「場違いではないか?」という疎外感を感じていた。

「三つ星の皿に、何がしかの
 影響をおよぼすのかもしれない」という点では、
精神的なプレッシャーを受けていた。
少し混乱していたのかもしれません。
パリに来て間がない頃です。
ある週末、いつものようにお休みが来ました。
今週も一生懸命やった……だけど、まだまだ自信は持てない。
そんな時、自分の部屋の掃除機の中に
毛玉が入りこんでしまいました。
故障。動かなくなった。

前にその部屋に住んでいた人の使っていた
掃除機を譲り受けたのです。
かなり古くなった掃除機です。
使えるようにするために、掃除機を開けてみました。
毛玉がこんがらがっている。

しかたがない。毛玉を指で取ろう。
ひとつずつ取らなければ、使えないのだから。
そうしたら、理由はよくわからなかったけれど、
ぼくは掃除機の毛玉をきれいにしている
作業そのものに、とても心が満たされました。

やっていることはしごく煩雑な操作です。
毛玉をひとつずつ指ではがす。除去していく。
手は汚れるし、面倒なだけの作業です。
でも、思うところがありました。
「この掃除機は、
 今の自分のような状態なのではないか?」
やりはじめると、そんなように思えたのです。
だから、心がやすらいだ。
この掃除機は、パリに出てきて
グチャグチャになっている自分の姿に見えた。
このままでは使いものにならない掃除機。
だけど、能力はある……
巻き込まれている毛玉だのゴミだのは、
こんがらがって混乱したぼく自身の感情なんだ。

ぼくは、感情に翻弄されている。

やっていることと言えば、新聞紙を下に敷いて、
クシを使ってゴミを掻き出すという単純作業ですよ?
バカみたいなことなんです。
端から見たら、せっかくのお休みの日に、
ムダな作業をしている日本人。
そんなつまらない手仕事を、飽きずに
いつまでもよくやるなぁ、ってなものでしょう。

でも、このゴミの除去は、
ぼくにはとても大切なことに思えたのです。
少しずつだけど、ひとつずつしか進まないけれど、
自分でやらなかったら何も変わらない。
ぼくは、今、この掃除機をきれいにしなければならない。
それをやり終えなければ、何もはじまらない。

目の前にある課題は、結局は
自分で丁寧に解きほぐすしかないんだ。
ひとつずつ解きほぐせば、必ずうまくいくはずだ。

不安を抱えながら混乱していた時期だった。
掃除機を使えるようにするという小さなことであれ、
「ひとつの問題が解決するんだ」
という事実が、とてもありがたかったのです。

この頃のぼくは、強気ではありませんでした。
夢のように清潔な職場。
すばらしい技術を手に、
花のようなチームワークを見せている同僚たち。
彼らがいかにすぐれているかは、よくわかっていた。
等身大以上のぼくでありたいと願っていた。
週末のアパートでひとり、
ぼくは身の丈のままのぼくと出会うのです。
疲れてもいる。がんばってもいる。必死だ。
だけど、どこか物悲しかった。

それが、掃除機がヒントになって、
ふっきれたんです。
そうだ、何も最初からすべてにおいて
すばらしくなることはない。
目の前にある仕事を誠実に遂行すればいい。

あとは運命に任せればいい。

このことは、よく思いだしては自分の方針にしています。
ひとつずつ何かをやっていれば、
きっとやりとげることができる。
やりとげられると思わなければ、仕事をはじめられない。

ちなみに、その時のぼくが解きほぐすべき毛玉は、
具体的にひとつ、あったのです。
それも、掃除機をきれいにしている時に発見した。

ぼく個人にとってのその当時の
「ひとつずつの毛玉を取ってゆく作業」が
何だか、わかりますか?

「人間関係を確立すること」です。
そのことに、ぼくはいちばん飢えていた。
自分ひとりでは、どんなに優秀であろうとも、
職場で最高の仕事を残せない。
自分の努力に手を貸してくれて
料理が完成されるのであって……
つまり完成した料理は、チーム全体のものでしょう。

ましてやここはヴィヴァロワです。
最高の仕事をする人が集まっている。
タッグを組まない理由はない。
「チームでの仕事をするには、環境だとか人だとか、
 仕事をしている最中のネットワークこそを
 大切にしなければいけないのだ」
そういう基本的なことを、
ぼくはその時になるまで、
ほんとうには分かっていなかったのです。



             (『調理場という戦場』より)





(※こちらの単行本先行販売ページも、
  ご覧になってくださるとうれしく思います)

2002-05-24-FRI

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