COOK
調理場という戦場。
コート・ドールの斉須さんの仕事論。

第14回 見習いでいる期間。


あさって22日(水)から、
『調理場という戦場』と『海馬』先行発売開始です。

両方の本が一般書店に並ぶのは、7月中旬。
しかし、先行発売に申し込んだ方には、
6月19日に、送料無料で発送いたします。
全部で280ページほどの重厚な『調理場という戦場』を、
みなさん、どうぞ、楽しみにしてくださいませ。

先行発売の日を待ちながら、
斉須さんの言葉をご紹介してまいります。
今日は、短かめだけど、かなり気持ちのこもった話題です。
「見習いでいる期間」についての
斉須さんの考えを、ゆっくり読んでくださると幸いです。

では、単行本からの抜粋文章を、お届けします。





<※第1章より抜粋>


見習いには見習いの期間が必要なんだと感じたのは、
フランスでの最初の職場、
カンカングローニュでのことでした。

子どもが子どもらしく過ごす時代を必要としているように、
見習いは見習いの立場にいる時に、
徐々に自分の目指す技術や夢について
思いめぐらすことを必要としているのではないでしょうか。

いまの日本では、割と駆け出しの料理人であっても、
パトロンがお店をまかせてくれる場合もあります。
だけど、生半可な時期に
スポットライトを当てられることには、
危険が伴っているものでしょう。

子どもの時間を満喫しなければ
きちんとした大人になれないように、
見習いの期間にやっておいたほうがいいこともあると思う。

調理場の中で、見習いというのは
いちばん周囲を見渡すことができるのです。
はじめて触れる社会の組織は、こういうものなのか。

料理長はこんなことをやって、こんなことを目指している。
お店は毎日このように回転している。
少し先輩の人は、入って何年目で
ああいう仕事についている……。

そうやって、見習いのうちにまわりを見据えながら、
自分の夢を少しずつ具体的な目標に定めていく。
その期間は、あったほうがいいと思います。

できるならば、若い人には、
ある程度の時期までは無傷で行ってほしい。

傷はいつかは必ず受けるものです。

三五歳ぐらいまでは天真爛漫なまま、
能力や人格や器を大きく育てていったほうが
いいのではないでしょうか。
無傷で行かないと、大舞台に立った時に腰がひけてしまう。
いじましい思いが先に出てしまう。

独立であれ、他のかたちであれ、
ほんとうに勝負する時というのがあるものです。
その時には、
「百戦錬磨の時を過ごしてきたんだ」という自覚と、
「もう俺はひとりでもやれる。
 誰もいなくなっても、やりきってやる」
というぐらいの気力の充実が必要なように思うんです。
そしてそのぐらいの覇気を必要とするのが、
「ひとりだち」というもののような気がします。
それは、まだキャリアを積んで数年の若い人が持つには、
なかなか難しい種類の姿勢なのではないでしょうか。

岩陰のない水槽で泳ぐ魚はストレスを感じてしまう。
それと同じように、
ぼんやりとまわりを眺めることができる
見習いの期間がなければ、
自分の夢を見誤ってしまうかもしれません。

料理人には誘惑が多いけれども、
夢を追って走っている人にこそ、
誘惑に負けないで欲しいなあと思っています。

今は、料理人に対するヘッドハンターが
うようよしています。
少し手先の器用なことをしたら、
二十代であってもお声がかかって、おかしくない。
「このぐらいのお金を出すから、
 あの店舗で料理長をやってみませんか?」
でも、その料理人には、
まだ、引きだしがとても少ないかもしれない。

実戦に使うことのできるバリエーションが
すぐに尽きてしまい、
飽きられて捨てられる、ということは、
若手敏腕料理人の辿る「よくあるケース」でしょう。



             (『調理場という戦場』より)





(※このつづきは、次回にお届けいたします。
  メールでの感想をいただけると、光栄です!)

2002-05-20-MON

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