COOK
調理場という戦場。
コート・ドールの斉須さんの仕事論。

第10回 もう、二〇代は捨てた。


このコーナーに寄せられるメールを拝読していると、
「走る」「実行する」といった言葉が特に目立ちます。

この『調理場という戦場』という単行本は、
三〇年近く、毎日手を動かしてきた人が語った
「実行するということ論」とも呼べるかもしれません。

みなさんからの感想メールの
「実行」という言葉を念頭に置きながら
本や映画などに触れてみたら・・・
いかに古来から、人が実行に関心を抱いてきたかが、
よくわかるなぁ、と思ったのでした。

「生きることを求めれば死を招き、
 死を求めれば生を見出すものだと悟りました」


例えば、
シェイクスピアのある劇には、
上記のようなセリフがあります。
この言葉だけをピックアップして言い換えてみると、
生きることにこだわっていればそのまま死んでしまうが、
死んでもいいと思ったところから、逆に生が見い出される、
とも受け取ることができるかもしれません。

きょう、単行本から抜き書きをする部分は、
割とこの言葉に近い内容になっていると思います。

では、前回のつづきの部分を、
『調理場という戦場』発売にさきがけてご紹介しますね!





<※第1章より抜粋>


買いだしの日以外には七時には料理場に入っていました。
仕込みなども含めると、その時間から仕事をしないと
一二時のオープンに間にあわなかったから。
七時に入るふつうの日には、
毎朝まず最初にポム・スフレを作りました。
じゃがいもを薄くスライスして、小判形に切って、
一六〇度ぐらいでふくらませておいて、
そのあとに温度が二〇度違うところにパッと入れます。
そうするとポンッとボールのようになる。
食べても完全にじゃがいもの味で、だけど
とてもきれいな、そういう技術を食べさせる料理ですね。
これを作るだけでも
調理場に入って一時間以上かかっています。
そこから肉と魚と野菜の下準備に入るのですが、
準備時間がとても長くかかったんですね。
日本ではたらいていた時の数倍。
お客さんが多いので、そのぐらいの時間を費やさないと
下ごしらえをできないわけです。

五月から十月までは、
だいたい二五〇名から三〇〇名くらいのお客さんが
常に入っていました。
川沿いのホテルの中にあるレストランなのです。
セーヌ川の上流のマルヌ川にお客さんがヨットで乗りつけて
岸沿いのテラスで食事をするタイプのお店でした。
テラスに二八〇人ぶんの席があって、
その他八〇人のバンケットルーム、
ダイニングには四〇から四五人ほど入る。

そして厨房にいるのは、一〇人。
これはほんとにもう「戦場」でした。どなり声も出ます。
サービスの間は精神的に酸欠状態なのです。
ボンベが欲しかった。
やりこなせないと思うようなことを
やってしまわないといけない仕事量。
やらなければしかたがない。
仕事を細分化しているヒマもないですし、
とにかく何よりも「急がないと、間に合わない」。

朝一番に今日のお客さんの
予約状況が記されている紙を見ると、
あまりの予約の多さに、
緊張で昼の食事を受けつけなかった。
長い紙には時間と流れがワーッと書いてあります。
その紙の横で賄いを食べるように
バケットが用意されているんですけど、
ぼくは食べられなかった。
この昼からの時間を思うと、
気持ちが悪くなってしまっていました。
だって、できるはずのない仕事量でしたから。
そんな仕事量ですがやらなきゃならないというか、
ここで働く以上は、やらないと明日はないというか……
泣きが入る場面なのですが、泣きが入ろうが入るまいが、
この店で継続して働くには、とにかくやるしかない。
平常心ではいられないですよ。

仕入れからはじまって、やることの絶対量が
日本とはあまりにも違うので、いろいろ身につきました。
しかも、一〇人全員が精鋭ではないから、
ひとりにかかる責任が大きい。
一人前に働けるのは四人ほどで
「あいつ、いないな」と思うと
裏でタバコを吸ってるような見習いの子もいた。
見習いの子は、確かに、運搬業と何ら変わりのないことを
させられています。走るだけしか、することがない。
冷蔵庫と火のあいだを何十往復もしている間に
イヤになってしまうのでしょう。
何かを置きにいったまま、
帰ってこなくなってしまうのです。

運搬作業がイヤになる気持ちはわかる。
だけど、許せない。
こちらだって、無理な仕事を
満身創痍でこなしているのだから。
裏でサボっている子を見つけると、
ぼくは床にまく木くずの置いてある
セリエ(倉庫)に連れていって、
頭からうずめてやりました。
腹が立って、感情を抑えられなかったのです。

忙しくなると、いつも何人かいなくなるんです。
一六歳や一七歳の子がいなくなる。
裏でタバコをふかしている。
だからぼくはセリエに連れていく……。
肉や魚を焼く時に必要な炭が置いてあったり、
床にまくおがくずが山ほど保存されている倉庫。
中からカギをしめて、「どういうことだ!」と問いただす。
一七歳そこらではあったけれど、
身長は一八〇センチぐらい。
だからぼくもほんとうは怖かったですよ。
ぼくよりも、ずっとデカいのですから。
でも、気力だけで押しきった。
「何やってるんだ!」
木くずにぶちこんだ。

思わず手が出てしまったことは何度もありました。
だって、忙しいサービスの最中に、働かないんですから。
しかもサボっているやつほど女の子にモテるんです。
お店の裏でふたりで会っていたりする。
ぼくは余計逆上しちゃって、
許せなくて、手が出てしまう。
思わず手が出て、若い奴が鼻血を出して、
親を連れてきたことがありました。
強制送還されてしまうかもしれないことがこわくて、
ぼくは逃げる。オーナーのケラーさんが
間に入ってくれてことなきを得る。
そういうことは、何度もありました。

働いている最中は、
「もう、二〇代は捨てた」と考えていました。

乞食ほどの貧しい生活ではないけれど、
薄給の中で長い下積みの期間を
フランスで過ごすということは明らかでした。
「いいとか悪いとかいうことではない。
 『そういうこと』なんだ」と思っていました。
自分がそれまでにいかに何もできない
情けない資質の人間だったかを把握していたから、
「三五歳になっても独立していることはないだろうなぁ」
と考えていました。
でも、今までの自分に甘んじるわけにはいかない。
前に進みたいのならば、効率は悪いかもしれないけれど、
自分の足で歩く以外に方法はない。
自分の目と手を使って探っていくしかない。

もちろん、五時から女の子と
デートをしにいくような人のことを、
うらやましくて仕方がなかったですよ。
ぼくも二〇代前半で、遊びたい盛りだった。
でも、ぼくも、
「そろそろ起死回生をはかりたい」と考えていたのです。
それまでの、いつも後悔しながら暮らしていた
自分のカラを、今度こそ破りたいと思っていた。
自分の習慣を変えずに流れるままに過ごしていたら、
きっと十年後も人をうらやんでいるに違いない。
モテる人がうらやましいし、
仕事のできる人がうらやましい。
生き方を変えなければ、
異性のことにも仕事のことにもどっちつかずで、
満たされないままの十年後を迎えるに違いない。

だったら、ぼくは仕事以外のものは捨てよう。

ぼくには資質がないのだから、
やり過ぎぐらいが当たり前のはずだ。
「やり過ぎを自分の常識にすることによって水準を守る」
というぼくの仕事への基本的な方針は、
この時からはじまったように思います。



             (『調理場という戦場』より)





(※つづきは、5月10日(金)に更新いたします。
  メールでの感想をいただけると、光栄です!)

2002-05-06-MON
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