COOK
調理場という戦場。
コート・ドールの斉須さんの仕事論。

第8回 厳しくて、体力のある文化。


感想メールを、いつもたくさんありがとうございます。
今日はまずはじめに、斉須さんから
みなさんへのメッセージを、お届けしたいと思います。


「ほんとうに、ひとつひとつのメールがすばらしいです。
 いつも、どうもありがとうございます。
 ぼくとしては、様々な感想をいただいた中で、
 『わたしは満たされた時に生まれでたがゆえに、
  これから先に何をおぎなえばいいか、わからない。
  何をやりたいのかもわからない』
 という若い方のメールが、とても印象に残りました。
 『斉須さんの時代は拘束事項がいっぱいあったから、
  やってやろう!と思えたのでしょうけれども、
  だけどわたしたちは、
  生まれた時にはぜんぶが満たされていた。
  これから、自分が、
  何を補っていけばいいのかわからない。
  やりたいことを簡単に見つけることができない。
  そういうつらさもあるのです』
 そんな風におっしゃっていて、身につまされたというか、
 ああ、そういうことなんだなと思ったのです。
 満たされているがゆえに満たされない。
 何をしたらいいかわからない……。
 ぼくの若い人に対する侮った意識や慢心さに、
 鉄槌を浴びたような気がしました。
 悩み多き青春時代というのは、いつでもある。
 質はすこしずつ変わっているんでしょうけど、
 悩んでいるんだなというのをまざまざと思いました」



では、前回のつづき・・・。
もうすぐ発売される単行本から抜粋して、斉須さんが
フランスに渡った直後に考えていたことを、紹介します。
ぜひ、ゆっくり呼吸をしながら、読んでみてくださいね。





<※第1章より抜粋>


飛行機に乗っているあいだも、
フランス語の辞書を読んでいました。
あいさつの練習をしたり、
お礼のフレーズをつぶやいてみたり……。

でも、日本で会ったオーナーシェフが
空港に迎えに来てくれたその姿を見た瞬間、
舞いあがってしまった。
フランス語を、もう何も思い出せない。
「ボンジュール」
「ボンジュール」
あとはただただ無言。
下を向いてモジモジしていました。

オーナーは笑顔だった。
「よーし、わかったわかった。
 じゃあクルマでお店まで行こう」
そう言ってくれた。彼はジャガーで迎えにきていました。

オルリー空港からマルヌ川沿いのラニーという町までの、
だいたい一時間ぐらいの道のりは、
とても無口なドライブになりましたね。
ラニーというのは、「ブリ・ド・モウ」という
チーズで有名なモウ村にとても近い町です。
パリから東へ四〇キロほど離れている。
田園風景のなかに、工場がぽつりぽつりとあった。

川沿いのホテルの中にある
「カンカングローニュ」は、一つ星レストランでした。
お客さんはパリからゆっくりと泊まりに来る人が
ほとんどだった。

丘陵地帯で川がよく見えるホテル。
川の反対側には、草原が広がっている。牛も見える。
ホテルは割と近代的な作りだったけど、
調理場は古色蒼然としていました。
入ったとたん、まっ白いタイル張りがまず目に入った。
どこに何があるのか、よくわからない。
照明は暗い。流しは銅でできている。
オーブンはガスだったけれど、グリルは炭でやっていた。
ブルジョワ家庭のキッチンを
大きくしたような印象でした。

配置も導線(調理場の足場)も、効率がよくなかった。
火の近くに冷蔵庫がないんですよ。
冷蔵庫まで走っていかなければ、材料を取りにいけない。

冷蔵庫は、一箇所しかなかったのです。
だから、オーダーが入るたびに若い子が走っていって、
主菜になる肉や、つけあわせの野菜を持ってくる。

若い子はいつも行ったりきたりで走っていました。
若い人が最初に任される仕事は、料理でも何でもない。
運搬屋です。

朝から晩まで走り通し。
何十回も往復させられるわけです。

「それじゃあもう、何のために
 料理人を目指しているのかわからないじゃないか」
そう、当然思うはずです。
その経験をクリアしないと実務にはたどりつかない。
十代でお店に入った子の初年度は、
終始そういうもので終わってしまう。

冷蔵室はコンクリートでできていました。
寒々とした刑務所の独房みたいで、
三畳か四畳半ぐらいはあります。
そのぐらいの大きさがないと、
何百人のお客さんをまかなうことは
できなかったものですから。

床には、木くずが撒いてあるんですよ。
調理の途中に何かを落としたりするものですが、
それが木くずにからまる。
それを木くずと一緒に履きだすことが、
このお店の掃除の方法でした。
人間どうし、小競りあいが続いていると
それがふつうになってくるように、
「常に汚れている状態ならば、汚れることはない」
という方法……。
落としたら、何もかも、
もうお客さんには出せなくなるのです。

日本のレストランとあまりにも
風景が違うところには驚きました。
「文明生活から、サバンナの大平原に来たのかなぁ」
とでも言うような。

とにかく、「なんだろう?」の連続でした。
なんでこんなに不便なんだ、
なんで日本にあったあの機材がここには入ってないのだ。
なんで、なんで……そんなことを思っていました。
それがぼくの、フランスの調理場の第一印象でした。

フランスに渡ってすぐに、
「生き抜くための激しさの下地が、
 日本とはぜんぜん違うなぁ」と感じはじめました。
狩猟民族の、略奪も何でもやってきたような
野蛮でたくましい下地を感じざるを得なかった。

フランスに行く前にぼくがいた日本の調理場には
「みんなと仲良く波風を立てない」
という雰囲気が充満していたのですが、フランスに渡って
「『みんな仲良く』なんて、ありえない」と気づきました。

自分の常識を通すためには、さまざまな軋轢を打破して、
時には争いごとだって経験しないと、
やりたいことをやれないじゃないですか。
ただただ仲良くしたいなんて思っているヤツは、
みんなに体よく利用されて終わってしまいます。

相手に不快感を与えることを怖がったり、
職場でのつきあいがうまくいくことだけを願って
人との友好関係を壊せないような人は、
結局何にも踏み込めない無能な人です。

日本ではぼくは割と軋轢を起こしてしまうほうで、
生意気だと言われたけれども、
相互理解のためには多少の軋轢があってもいいと言うか……
むしろ必要な作業であるとさえ思った。

料理場でさっきまで大声でケンカをやっていた
同僚ふたりが、五分もしたら、カフェで
白ワインかなんかを飲んで、楽しく話をしている。
そんな姿を見ているうちにぼくも
「不満を黙っているのは罪だ」と思うようになりました。
最初はその切り替えを理解できなかったけれども。

フランスに行った時のぼくは、
ほんとうに「いわゆる日本人」だった。
世間知らずの二三歳だったから、すべてが刺激的だし、
見るもの聞くものすべてにわくわくしながら、
いつもショックを受けていました。

厳しくて、体力のある文化。

フランスの激しい文化はきっと、
食べ物から来ているものが大きいのではないでしょうか。
と言うのも、フランスでの生活が長くなり
食生活になじめばなじむほどに、
爆発力が押さえきれなくなってくるのです。

「脇に誰がいるからやめておこう」みたいな
余計な気づかいが、だんだんなくなっていきました。



             (『調理場という戦場』より)





(※つづきは、5月3日(金)に更新いたします。
  メールでの感想をいただけると、光栄です!)

2002-04-29-MON
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