みんなCM音楽を歌っていた。 大森昭男ともうひとつのJ-POP


“デビュー前の起用

糸井重里 音楽って、いろんな思惑とは関係のない場所で
ちゃんと残っていく。
そこが面白いなって思うんです。
CMという建物には、
施主(クライアント)の意図と
建築家(クリエーター)の意図があるんですけど、
でも、結局は、住人の思っているようになるんですよ。
たとえばいま「夢一夜」を口ずさむとしても、
それは当時のCMとは、もう何の関係もないですよね。
それは、音楽じたいが、すばらしいものだからです。

大森さんという人は、とてもよく働く農家のような人で、
畑を耕して種を蒔いて品種改良もして、
おかげで「このお米、おいしいね!」って
みんなに言われたんです。
江戸時代に蔦屋重三郎という出版人がいて
山東京伝や歌麿、写楽を世に出したんだけれど、
大森さんも同じようなタイプだと思います。
一所懸命やった人が、みんな、功労者なんです。

ものをつくることを集団で考えるときに
直線的じゃない、
名付けようのないものを抱え込まないと、
豊かさが生まれませんよね。
「それ、会社の利益になるんですか?」
って突き詰めて言われちゃうところとは違う、
面白く受け入れてもらって稼ぐこともできるという、
このものづくりのしかたって、
「ほぼ日」にも、スタジオジブリにも生きています。
必死だけど辞められないんだよねって。

(糸井重里)



今日の立ち読み版

80年代前半がCM音楽の黄金期だった──。

この連載の中でも、大森と関わったクリエイターから
何度となくそんな発言を聞いた。
「CM/TV」の中にも
1980年から1984年までの作品が14本ある。
アルバムには収録されていないが、
彼とRCサクセションの忌野清志郎が組んで
大ヒットさせた資生堂のCM音楽
「い・け・な・いルージュマジック」も1981年だ。
坂本龍一はその頃のことについてこう言う。
「それまでのことはよく知りませんが、
 日本のCMがかなり洗練されていった時代ですよね。
 川崎徹さんとか、糸井重里さんとか
 新しいクリエイターが出てきた。
 刺激がありましたよね。
 特に映像面での洗礼があったと思います。
 映像にどういう音楽をつけるかという丁々発止があった。
 向こうをうならせてやりたいとか、
 驚かせたいというライバル意識。
 それが後の『戦メリ』につながってると思いますね」
“RYUICHI SAKAMOTO”の名前を世界的に広めた映画
「戦場のメリークリスマス」が公開されたのが
1983年だった。監督は大島渚である。
彼が坂本龍一の起用を決めた時、
二人は会ったこともなかったそうだ。
「なぜ僕だったのか、何回か聞きましたね。
 写真集を見て決めたそうですよ。
 そういう人だったんですよ。
 自分は音楽のことは分からない。
 自分の役目は自分の感覚で君を選ぶことで、
 後は君の好きなようにしてくれ。
 失敗したら自分の責任だからって。
 音楽は三カ月かかって作ったんですが、
 一回だけ大島さんがスタジオに見に来て
 『どこまで出来ているか』って。
 一回だけですよ。
 その前に一回、どこのシーンに音楽を入れたいかという
 リストを二人で作って付き合わせたら99%同じだった。
 打ち合わせもその時だけです。
 こっちはそれ以前には何も作ってない全くの新人で、
 監督としてはすごいリスクを
 抱えているわけじゃないですか。
 でも、失敗したら選んだ自分の責任だって言われて。
 トップのあり方としては素晴らしい人ですよね。
 企業には、そういう経営者は少ないかもしれませんね」

大森昭男がプロデュースした坂本龍一作品は
「CM/TV」にも入っている1988年の
「日産セドリック」が最後になっている。
坂本は90年代に入り、
制作の拠点をニューヨークに移している。
それでも彼のCM作品がなくなってしまったわけではない。
製薬会社「三共」のリゲインのCM
「エナジーフロー」を収録した
「ウラBTTB」がインスツルメンタルの曲としては
初めてオリコンチャートの一位となり
ミリオンセラーになったのは1999年のことだ。
「なんであんなにヒットしたのか
 自分でも分からない(笑)。
 いままで800曲くらい作ってきたわけで、
 その中で特に良い曲だったわけじゃないですから。
 他にも良い曲がいっぱいあるし。
 なんでなのか不思議でしょうがないんですけど、
 自分では分からない何かがあるんでしょうね」

70年代から90年代。
彼がそうやってCM音楽に関わる中で
感じてきた時代の変化というのは
どういうものだったのだろうか。
「80年代のように
 CMという本来の目的とは外れていても
 作品として面白いという自由さは
 なくなってきた気がします。
 もちろんそれは資金力がないと
 企業にも出来ないでしょうし、
 バブル以降の沈滞ということが
 そうさせるんでしょうけど。
 資金力がないと失敗出来ないという
 規制も働いて安全なものに行きますから
 アートとして面白くないのは当然ですよね。
 でも、そういうひらめきがいまも
 ヨーロッパなんかではありますよ。
 多いのは洋服なんかですけど、
 街を歩いているとアイテムはいろいろだけど
 驚かされるというものが社会の中に無数にある。
 クリエイターと見えない大衆との驚かし合いというか。
 思わず笑ってしまうようなね。
 日本はそういうのが少ないかな。
 見たことのあるようなものしかないんですよ」

大森ラジオ 1988年
日産「セドリック『プール編』」
作曲・アーティスト 坂本龍一
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2007-09-13-THU





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