みんなCM音楽を歌っていた。 大森昭男ともうひとつのJ-POP


キャロルからの脱皮、矢沢永吉

糸井重里 矢沢永吉さんが出てきます。
出身地は、CMとは関係ないところにいる人だけど、
売れるのは望むところだよ、という人ですよね。
「時間よ止まれ」はね、
レコーディングに坂本龍一さんが
参加していることが重要ですよね。
クリアで、力強くて、ほんとうにいい曲で。
近田春夫さんも「不朽の名作」と言った、
古典ができちゃったわけです。
こういう曲が生まれて、テレビを中心にして
ロックでも渦巻きが出てきて、
それがどんどん大きくなっていきました。

この頃、阿久悠さんが、じぶんのおもちゃ箱から
ひとつずつ好きなものを取り出して歌にして、
ピンク・レディーというものが出てきました。
サウスポー、透明人間、モンスター、シンドバッド、
虚構のテーマを、虚構の存在のふたりに歌わせた。
あれって動くアニメだと思います。
アニメの系譜の中にピンク・レディーを
大きく入れないと、
虚構から虚構へ、という流れが解明できないですよね。
いま、映画がぜんぶアニメ的になっているのも
ピンク・レディーが転換点だったと思うんです。

(糸井重里)



今日の立ち読み版

「実は宇崎さんは好評だったんで
 翌年もお願いしようということになっていたんですよ。
 でも、それが出来なくなったんですね」
“化粧品タイアップ戦争”が始まっていた。
資生堂は先発メーカーとして注目されていた。
一躍ファッション的イメージを獲得した
ダウン・タウン・ブギウギ・バンドには
後発のコーセー化粧品がすでに話を持ちかけていた。
同業他社のCMに出演している人間を
起用することはあり得ない。
それ以上のインパクトのあるキャラクターを
起用しなければいけない。
その中で出てきた名前が矢沢永吉だった。
資生堂側の担当が田代勝彦だった。
「宇崎さんよりもっとリスキーな感じはしましたね。
 みんなで彼の武道館コンサートを見に行きましたから」

矢沢永吉の武道館公演は
1977年8月26日に行われている。
彼にとって初めての武道館であり、
日本のロックアーティストにとっても初めての公演だった。
客席には立ち見を入れて13211人。
約2000人が入場できず外で歓声を上げていた。
「このライブでのヴォーカリストと
 バックバンドとのタイトな一体感は
 テクニカルな限界を超え、
 “暴走族”と呼ばれていた
 ティーンエイジャーのファンが過半数を占める
 オーディエンスをも巻き込んだ
 独自の世界を作り上げている」

この日の模様を記録したライブアルバム
「スーパーライブ・日本武道館」について、
ファンクラブが監修している資料にはそう書かれている。

矢沢永吉が彼のバンド、キャロルでデビューしたのは
1972年のことだ。
革ジャンにリーゼントのロックン・ロール・バンドは、
フォークソングが全盛だった当時のシーンでも
強烈なインパクトを持っていた。

彼らのコンサートでは興奮した観客が
客席で喧嘩を始めたり、
会場の椅子を壊すなどの暴力行為が絶えなかった。
1975年4月15日の日比谷野音での
解散コンサートの模様を収めたビデオでは、
その頃の彼らのコンサートの雰囲気を
感じ取ることが出来る。
ステージの上には日本酒の瓶が置かれ、
興奮した観客がステージの上に登ろうとする。

矢沢永吉がソロ・アーティストとしてデビューしたのは
1975年の9月だった。
バンド時代の革ジャン・リーゼントとは
一線を引いたスーツ姿のステージ。
でも、客席にはまだそうしたバンド時代の
イメージを求めるファンが多かった。
“暴走族”。
身内のファンクラブでさえ、
そんな用語を使っているのが象徴している。
この年のコンサートツアーは、地方で、何度となく
“会場拒否”に遭っている。
つまり、矢沢のコンサートは危険だから貸さない、
という会場が少なくなかった。
当然の事ながらテレビの歌番組に出たことはなかった。

確かにインパクトは
ダウン・タウン・ブギウギ・バンド以上だった。

田代勝彦はこう言う。
「最終的に決めたのは演出の黒田明ですね。
 ただ、僕はその当時、
 彼がどこかの新聞のコマーシャルで
 テレビに出ていたのを見たんですよ。
 そうなのか、テレビで歌ったりはしないけど、
 出ることは出るんだなって思った。
 それなら大丈夫かもしれないと
 思ったことがありましたね」
「時間よ止まれ」というキャッチコピーは
コピーライターの小野田隆雄による。
資生堂側が考えたものだ。
矢沢永吉のところには、絵コンテとともに
そのコピーが届けられた。
大森昭男のところには矢沢自身の
メッセージの入ったカセットテープが送られてきた。
彼の印象はこうだった。
「ギター一本で自分でメロディーを歌われていたんです。
 作詞は山川啓介さんにしてほしいと指定もされていて、
 テープの最初の部分で作詞のイメージを
 言葉で話してるんですよ。
 絵コンテから想像して、こういうイメージなんだって。
 その中にパシフィックという言葉は
 もうあったと思いますね。
 プロデューサー感覚のある人なんだなって
 ちょっと驚いた記憶があります」
「時間よ止まれ」のレコーディングは
1978年1月7日に行われている。

資生堂サイドのプロデューサーが田代勝彦、
制作側のプロデュサー・ディレクターが大森昭男、
エンジニアが吉野金次。ミュージシャンは、
坂本龍一(KEY)、後藤次利(B)、
高橋幸宏(DR)、斉藤ノブ(PER)、
木原敏夫(FG)、相沢行夫(G)
という顔ぶれとなっている。
「あのスタジオはよく覚えてますね。
 矢沢さんは当時住まわれていた
 山中湖の方から出てこられて。
 毛糸の帽子をかぶっていて、かなり素な感じでした。
 吉野さんがヘッドアレンジで色々意見を言って、
 坂本さんが突然フレーズを思いついて弾いてみたり。
 相当クリエイティブな空気でした」
「時間よ止まれ」は、1978年3月21日に発売された。
オリコンのヒットチャートでは6月12日付けから
三週間、一位を続けている。
彼にとっては初めての一位であり、
その後もそれ以上のヒットは出ていない。
年間チャートでも12位にランクされている。

この年のシングルチャートの一位は、
一年間のうち30週をピンクレディーが独占している。
曲は「UFO」「サウスポー」「モンスター」
「透明人間」である。
ちなみに「時間よ止まれ」の前の週の一位は
沢田研二の「ダーリング」だった。

ピンクレディーの独走を阻み、
沢田研二を凌ぐ人気の男性ボーカリスト。
「時間よ止まれ」は、
矢沢にそれまでにまつわりついていた
“暴走族のヒーロー”というイメージを
一掃したと言って過言ではないだろう。

大森ラジオ 1978年
資生堂「時間よ止まれ」
作詞 山川啓介
作曲・アーティスト 矢沢永吉

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2007-09-03-MON





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