BOXING
私をリングサイドに連れてって。

怒れる天才ボクサー、タイソン劇場6月9日開幕!

いよいよ「その日」が近づいてきた。

WBC・IBF世界ヘビー級タイトルマッチ
「レノックス・ルイス対マイク・タイソン」

21世紀初めてとなるヘビー級「メガ・マッチ」。
こんなフレーズに嘘偽りは全くない。
それほど全世界が注目している。

しかしそんな表現よりも、どんな言葉よりも
純粋にこの対戦は
現代ボクシング史における大きな道標として
将来まで人々に語られる試合に違いない。
それほど現在のボクシング界において実現し得る
究極のマッチメイクなのである。

現在のヘビー級最強ルイスと
キャリア晩年期にさしかかろうというかつての覇者、
タイソン。
196cmという大きな体、長いリーチと破壊力、
持って生まれた体格を最大限に活かし、
リスクが低くかつ迫力あるボクシングを展開するルイス。

180cmとヘビー級では小型、
(実は小型どころか歴代ヘビー級チャンピオンで
 身長6フィート[約180cm]未満は僅か6人しかおらず、
 73年のジョー・フレジャー以降は
 タイソン以外皆無なのだ)
スビードとキレが身上だが、現在、35歳。
肉体を限界まで高めなければいけない
小型選手のハンディを負うも、リング上での「本能」が
観衆を常に引きつける天才タイソン。

この二人が現実に同じリングにあがるとなれば
ボルテージがあがるのも当然のことである。

しかし私が本当にこの試合に注目する理由、
それは不確実ながらもマイク・タイソンという人間、
そしてボクシングの歴史を遡っても稀有の
この天才ボクサーの「運命」に魅了されているからに
ほかならないのだろう。

今では華やかなイベントとなり世界へ生中継されるほど
メジャースポーツ、ビックビジネスとなったボクシング。
そのアメリカにおけるボクシング黎明期の
黒人ボクサー達の切ない歴史や生い立ち。
それを現代に置き換えてみると
タイソンのこれまでの人生と
いくつもの共通点をみることができる。

アメリカのボクシングの起源は
「奴隷制度」の歴史でもある。
かつてローマ皇帝が奴隷同士の死闘を
コロセウムで観戦したように、
アメリカ南部の農園主たちは英国から流れてきた拳闘で
「所有」する奴隷達を戦わせ、
賭けと娯楽の対象にしていた。
特定の人種の貧しい人々にとって、
メジャーリーグのジャッキー・ロビンソンのような
時代を切り拓いたものではなく、時代に支配される形で
強制的に時を刻み始めたのである。

タイソンのこれまでの人生も波乱である。

ニューヨーク・ブルックリン、12歳、矯正院、
恩師/カス・ダマト、オリンピック予選敗戦、
マネージャー/ビル・ケイトン、
最少年ヘビー級王者、巨額の金、
女優/ロビン・ギブンス、プロモーター/ドン・キング、
王座陥落、レイプ、収監、復帰、リング内外でのトラブル、
解雇、暴言、そしてマスコミ。

文章を詳細に組み立てなくても
大概の人がこの言葉から想像しうるほぼそのままの
凝縮した「両方」の体験を
タイソンは20代、それも前半までにほぼ全て経験している。

それは物事の正と負であり、善と悪、優しさと哀しさ、
そして最大の希望であり敵でもある
「欲」という環境に囲まれ翻弄された
極端なる体験である。
通常の人間の何百倍、いや、現代においては
小説や過去の伝記、映画の中にしかないような
体験を激しく圧縮した人生ともいえる。
誰もが知っているボクシングと切ってもきれない言葉
「ハングリー」という単純な言葉で
理解を得られるような環境ではなく
もっと不可解で暗く翳りのある、
常に矛盾を含んだ複雑な人生そのものである。

そんな時代と環境と人間がタイソンという怪童を産み、
「現代のゴーレム」に育てたのだろう。

最近ではボクシングファンならずともタイソン戦に
「何か」を予感している人も多いだろう。
それは野球における手に汗握る
緊張の試合展開を楽しみながらも
何か別の、さながら死球によって引き起こされる乱闘、
秩序のなかの無秩序、理想的な静寂を引き裂く
けたたましい事態を
タイソンが誘発するのではないか?
そんないいようもない矛盾を抱え込んだままの期待感と
いいかえてもいいだろう。

1800年代後半、黎明期のJ.L.サリバン、
1908年黒人初のヘビー級チャンピオン、
ジャック・ジョンソン、
その後「デンプシー・ロール」ジャック・デンプシー、
「褐色の爆撃機」ジョー・ルイス、ソニー・リストンらの
スーパースター伝説。
60年、70年代を席巻したカシアス・クレイこと
モハメド・アリ。
80年代、レナード、ハーンズ、ハグラー、デュランら
中量級を支えたスター達が翳りを見せ始め、
ボクシング界が誰かに、
限りなく強力なるものを求めていた。
そこにボクシングの神が偉大な奇跡を起こすために
命を吹き込んだ存在。
小さくともスピードとキレで見るものを圧倒し、
誰しもが注目する驚くべきKOアーティスト。
しかし人間としては常に未完成であり、
最終的な形になっていない素材。
そして極めて純粋過ぎる。
それでいて一般からは「やっかいな存在」視されてしまう。
それが「現代のゴーレム」タイソンである。

一方のルイスは、ジャマイカ系でカナダ、
そして英国に落ち着いた移民の流れをくむ。
36歳の現在も独身で、母親の手料理を好むなど、
トラブルとは無縁、ボクシング界を代表する
現代のトップアスリートとして紹介するのが
最も似合う存在だ。
インタビューでも物静かで品性そして知性さえ感じ、
一瞬なぜボクシングを?と考えてしまうほどの紳士であり
完全な「大人」なのだ。

「狂気と夢を持つ男」タイソン。
「理想的アスリート」ルイス。
これは単なるヘビー級タイトルマッチではなく、
好対照な二人の男の人生の激突でもある。

勝負に絶対はない。

人生において多くの人間本来の持つ「哀しみ」を
背負った選手が魅力的に映るのがボクシングである。
だからといって勝つとは限らないのが、
ボクシングでもある。
残酷でもあり、ドラマチックであり、嬉しくもあり
悲しくもある、ゆえに魅了的なのだ。

現代のゴーレム、タイソンを
誰もコントロールすることはできない。
制御者を失ない、苦しむタイソンは
リング内外で己の破壊力を証明し、
それのみで注目を浴びてしまうように映る。
しかしそれは現代においては数少ない
魅力的な嘘偽りない、
真の「怒れるボクサー」ともいえるのである。

ゴーレムを描いた次のような話がある。
かなわぬ恋からの嫉妬で人を殺し、
復讐の鬼と化して破滅する。
しかし最後には子供のように純真無垢となる存在になる。
それは私がイギリスで見た、
タイソンがホテルで子供を抱き上げた時の優しい目、
そして頭を優しく撫でていた光景、
そしてスコットランド、グラスゴーで
歓声で受け入れられた時の
あの無邪気な仕草やうれしそうな表情と重なる。

タイソンは何から何まで純粋すぎる人間ではないか?
愛や虚栄心に敏感で、怒り、暴力を
自由に解放してしまう。。
我々が「常識」という扉の奥に隠しているものを
不器用に、瞬間的に時として解放してしまう。
しかし私には自分を産み、育てた、環境やエゴ等、
さまざまな者へタイソンが送る
叫び苦しみのメッセージのように思えて
しょうがないのである。

自己破壊と同居する純真無垢。
憎しみのように切ないものではない、怒りを体現する男。
私は今のタイソンに昔は微塵にも感じなかった
かすかな哀しささえも覚える。
それゆえに、より強くタイソンに魅せられてしまう。

「タイソン劇場21世紀第一幕」となるこの試合は
どんな試合となるのかと同時に
タイソンは何に、そして何処に第何幕まで、
向かっていくのか?
ボクシングとして試合の勝敗や、内容はもちろんだが、
タイソン史とも言うべき歴史の一コマの
大きな見出しになる出来事には間違いないだろう。
その日が迫っている。

WOWOWではこの試合の模様を
アメリカ、テネシー州メンフィス、
ピラミッド・アリーナより
6月9日(日)AM11:00から独占衛星生中継します。
お楽しみに。


ご意見はこちらまで Boxnight@aol.com

2002-06-04-TUE

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