大丈夫な理科系の対談。

第7回 日本人としてのアイデンティティ

糸井 そこで、「私」としてはどのあたりに
どうなればいいとか思い始めたんですか?
サービスにしても文化接触の結果、
私の答えはこれだっていうのは。
内田 それは、あなたは何者? とか
日本人ってどういう人達? といった
質問の答えを考えてるうちに出てきたものが
そうだと思いますよ。

まず聞かれるのは
お前の宗教は何だとか、
お前の祖先はどこでどう生まれて
何やってたかとか、ですよね。
そういう事を彼らは非常に大事にするんですよね。
結局それがその個人レベルの
アイデンティティなんですね。
だからそれが語れない奴は、それを必死に調べる。
アフリカから綿花を摘むために
連れて来られた黒人とかが、
自分のルーツを調べた話がありましたね。

宗教とかそういう、人間にとって
基本的な要素と思われるものをきちんと持ってて、
それを説明できるということが、
個人として認められる第一歩だなと思ったわけ。

次に、日本人としてはどうかというとき、
何をしゃべるのがいいかっていうと
日本人はかつて家族を大事にして、
祖先を崇拝しているというのと、
果実の公平というのを
もっぱら大事にしていたというあたりを
言うことになっちゃうわけですよ
糸井 それを言うしかないですよね。
内田 そういう説明で、相手の持った印象は
素直に理解してもらえたみたい。
そうすると、それが日本人のアイデンティティだと。
それをもっと大事にしなきゃいかんという風に
やっぱりいっちゃうわけですね。
糸井 一方で研究者として、
そのあるパラダイムの変換で、
死んじゃうんだという覚悟があるわけですよね。
コンペティションどころじゃないですよね。
生死を賭けたみたいな、精神的な。
それと今のいっちゃうんですよねっていうのは
ものすごい距離がありますよね。
内田 そうそうそう。
研究者としてのアイデンティティ、
内田個人としてのアイデンティティ、
そして、日本人のアイデンティティとあって
それは随分違いますね。

でもそれは切り分けられるんですよね。
それは日本人の器用さとも言えますけど、
必ずしもそれは日本人に限らないわけですよ。
ある時に中国系アメリカ人を招いたんです。
外見は中国人ですから
日本人とそう変わらない。
でも、半分中国人、半分アメリカ人なの。

だから、個人とか人種としてのアイデンティティは
日本人とは違うんだけど
研究者としてのアイデンティティについて、
彼が言うにはね。
コンピューターサイエンティストは、
世界中どこへ行っても、
90パーセントは同じ顔で
同じ言葉をしゃべるって言うわけ。
それは、言葉をしゃべるっていうのは
表層の言葉ではなくて、
メンタリティが似てるっていうわけですよね、
彼が言うには。
だから、俺はどこへ行っても寂しくないよって
いうのがあるわけ。

日常生活とか家庭生活とか
個人のそういうビヘイビアといったもの
まあ、生まれによるアイデンティティと
研究とか仕事のビヘイビア、
これは研究者としてのアイデンティティでしょうけど
こういうものは研究者の場合は
切り換えられるみたいですね。
糸井 ああ、つまり90パーセントの割合が
何人(なにじん)であるかとか、
そのどういう育ちをしたかじゃなくって、
後天的に自分が切り開いた結果みたいなものが、
90パーセント重なる時代になっていってるんですね。
内田 いや、これは、どんな職業でも
人種を超えて、後天的なものが重なるかどうか。
研究者っていうのはちょっと特異かもしれないですね。
でも、政治家なんかもそうかもしれない。
きっと政治家っていうのは
どこへ行ってもみんな胡散臭いとか、
わかんないですけども、
政治家的なビヘイビアとか、その特徴って
同じなんじゃないですかね。
糸井 そうですね。
だから、野党的なものだとか、
アナーキストでもなんでも
そうだと思うんですけども、
やっぱり軸になってる価値観はパワーですよね。
その意味では同じですよね。
内田 だから、あなたのアイデンティティは? と言われて、
研究者としての内田として答える時と、
何かの理由で私が国を代表したりしている時は、
切り分けてるわけですね。
さっき言った会議のお手伝いをしてくれる
お嬢さんたちと騒いでるときは、
そういう後天的なものは、
全部脱ぎ捨てちゃってるんですね。

その時はちゃんと日本人になっちゃってるから。
だからそのお嬢さんたちは、
面白いのがしゃべってると、喜んじゃう。
ほら、パンダが来たようなもんじゃないですか。
日本人なんか滅多に近くに来ないから、
みんな面白がるわけよ。
糸井 あんな小っちゃな国から来ましたみたいな。
内田 で、質問責めに遭うわけ。
日本っていうのは聞きたいことがあるし、
日本のテレビやラジオはいっぱい触ってると。
でも、日本人とこんなに近くで話したことは
ないっていうのがいっぱいあるわけよ。
糸井 それはどのくらい前ですか。
10年くらい前?
内田 1985年とかその辺りですかね。
そのころが一番僕が飛び回ってたころだから。
だからそういうのがあってね、
いろいろ答えているうちに
彼らがいちばん知りたがっている
日本人のアイデンティティって
何かを考えさせられるわけ。
最初私、アイデンティティって意味が分からなかった。
辞書引いただけじゃ分かんないでしょ。
識別番号みたいなもんだと思ってたら、
そういうことではなくて、
やっぱりその人の、ある意味じゃ、来し方、
育ち、氏素性(うじすじょう)みたいな。
糸井 寄って立つところ、って感じですよね。
内田 日本で言えば氏素性みたいなもんですよね。
それがアイデンティティなんだと。
彼らは非常にアイデンティティというのを
意識して大事にしてる。

だから、インターネットの時代になっても、
例えば、フラマン語みたいなものは、残すとか、
(フラマン語:オランダ語の方言。オランダ南部〜ベルギー北部で
 話されている)

マイノリティであればあるほど
そこはセンシティブ。
そうすると日本人は残念ながら
国境を接して異文化との密な交流が無かったから、
国際社会では大変大事な
そういうアイデンティティが確立されていないんです。

我々の培ってきたアイデンティティは
インターネットの時代に向けて、
善いか悪いか分かりませんよ。
分かんないけど、それはそれなりに認識して、
その寄って立つ所を、アメリカ型に
リプレイスするならね、
いろんな側面でその価値を再評価してから
入れ替えないといけないんじゃないかと。
例えば親会社子会社の仕組みとか……
国全体を天皇陛下を父、大君とし、
国民を、その赤子(せきし)として、
なんていう考え方だって
アイデンティティの一部なわけですから。

そういう文化というか主義に対して
インターネット上で
バラバラで、自由にグループはできるものの、
かなりアナ−キーな分散主義ということに
国の仕組みを変えてゆくというなら
その時考える時間のレンジは
10年20年じゃないですよね。
きっと100年200年のレンジで
どっちがいいかっていうのをね、
もっとしっかり考えたいと思うんですよ。
インターネットみたいな
文化を変えてしまう可能性のある道具を、
入れるんですから。
糸井 ……。
内田 今みたいにね、
エレクトリックコマースだとか、
新しい仕組みが入ってくる。
デジタルエコノミーなんていう本読むと、
だんだん個人レベルの競争社会になっていくと
書いてある。

例えば、会社の中で製造部門と
デザイン部門があるとした時に、
以前はデザイン部門と製造部門の間の交渉で、
車のデザインなんかが取り引きされた。
誰がデザインしたかというのじゃなく、
デザイン部がデザインしたんだっていうことで話は済んだ。

しかし、これからはデザイン部の一人一人が、
自分がデザインしたものを
ネットワークに載せて製造部門に提示しなさい
ということになる。

そうすると製造部門は、個人ベースで
こいつのデザインがいいということになって、
個人ベースの取り引きとなる。
部というものが、従来は一つの単位だったのが、
バラされちゃって、
個人ベースでバーゲニングやるわけですよね。
評価も個人ごとにはっきり出ちゃう。
だから会社っていうのの在り方、
会社の中での個人の在り方が
変わっちゃうというわけ。
だからチームワークというようなものは
大打撃を受けちゃうだろうということが書かれている。

そういうような日本的集団主義とか人間関係とか
日本人のアイデンティティとしていたものが
どんどんどんどん、なし崩し的に
アメリカンスタンダードに
議論もなしに変わってっちゃうのかなあと。
それとも日本人はどっかで、
ああ、なんかやっぱり随分殺伐とした国に
なっちゃったなぁと、
だからもう一回戻そうよと思うのかなぁ、とかね。
糸井 あの、とても話はわかるんですね。
で、現実的ではなんなのかと言った時に、
提示するアイディアっていうのが
必要になるわけですよね。
アイデンティティっていうのについて、
しっかり考えろと言われても
しっかり考えるっていうのを
別枠にするわけにいかないわけで、
ある条文があれば考えたことになるわけでもない。

そうすると、
事実上のパワーシフトみたいなものっていうのと、
形式上のパワーシフトと二種類あって、
絶対に、僕は現実には事実上のパワーシフトの方が
強いと思ってるんですよ。

これは、さっきの嫁入りの女性に譬えて
言った話っていうのも、
全く、話は事実上っていうのを言ってるだけで、
何が変わったらいやなのかっていうことについて、
その変わることそのものを喜ぶんじゃなくて、
変わるの変わらないの考えないで
いってしまった時に、
振り返ったらこれはいやだという風にしか、
答えって出ないんじゃないかと、
僕は思ってるんですよ。
内田 なるほどなるほど。
糸井 あの、洋服を着るときに論議があったかっていう。
内田 現実先行ということになった。
糸井 で、着物はどれだけ大事かって。
でも洋服は自然に着られていった。
で、今生きていくのに
洋服っていうのはいろんな意味で便利だと。
内田 そうですね。
糸井 じゃあ着物はよくないかっていうと、
着物は着物を着ていること自体に、
まずは流行から逸脱していられるっていう
意味では、着物で街を歩いているだけで、
ある意味では世間に対する反逆の意思さえ
あるわけですね。

そうすると、カッコイイなと思ったら、
着物着る人がちょっと増えるかもしれない。
そのそういう風に事実が作っていくものを、
見られるか見られないか。
あとで、事実はこうだったって
10年経ってから分かってもしょうがないんで、
それをしっかりウォッチできる
力みたいなものの方が、
条文を作れと言っても作れない以上は、
重要なんじゃないか。

つまり、内田さんが忙しいって
国際的に飛び回ってるときに、
飛び回りながら考える力というものが
仮にあったとしたら、
絶えずフローとしてアイデンティティが
生まれてたような気がするんですよ。
ストックとしてのアイデンティティではなくて。
俺はっていうことと、
俺っていうものの日本人として
生まれてこうこうこうこうでっていうものが、
小出しになってたような気がするのね。

で、それを何ていうのかな、
自分に問い掛けるというか、
それしかないんじゃないかなと思ってるんですよ。
怖れてるから、
その石原慎太郎型の動きをしてみたりとか、
あれも怖いっていうのが根にありますからね。

黒船だーって。
じゃあ、黒船にへつらえばいいのかっていうと、
やりづらいんだったら、ああやりづらいと思う、
自分が今何考えてるんだろう、
何感じてるんだろうっていうのを
もっと小さなレベルというか、
秒針のような単位で見ていくような習慣が
僕は今までなかったような気がするんですよ。

そうすると、蓄積してみたら、
こんなに大きく変わってた、
それをある時何時何分から
こうだっていうわけにはいかないわけで。
僕はその毎日っていう仕事の仕方をしたの
生まれて初めてで、毎日やってることで、
あ、俺ってこうだったかもしれない、
読者はこうだったかもしれないっていうのを、
動きながら見てるっていうところで、
あ、これ、諦めた方がいいな、
何かを守らせるっていうこともできなければ、
数として認識するんでもなく、
何かを守らせるために、
その素晴らしいアイディアを出すんでもなく、
できていくものがどっち向きなのかなぁと、
はっきりと船の位置付け、海図で言うと、
この船今どこにいるの?
どういう潮の流れなの?
で、先に向こうに島が見えるけれども、
そこに行くんだとしたら、
舵は一辺左に取った方がいいの?
右に取った方がいいの? だとか、
ものすごい細かく毎日やることでしか、
身につかないんじゃないかと思うんですよ。

インターネットっていうのは、
それを全員がやってるじゃないですか、実は。
でも、脳がサボろうとすると固定化して、
楽になろうとして、接触がなくなりますよね。
これはずーっと触っていても大丈夫な、
こう、気力と体力が一番大事だなって
本当は思ってるんですけどね。
内田 だから、一番いやなのはね、
新しいアイデンティティを生み出さずに
アメリカンスタンダードに押し流されちゃうみたいな
結果になることなわけですよね。

たとえば、結果の均等っていうのは、
あの非常にある意味では
人間をリラックスさせるし、
それから競争を緩和するっていうか、
過剰な競争を抑える。
日本人で長くアメリカに住んでいても、
永住しないで途中で帰って来ちゃう人が多いですよね。
その原因のひとつっていうのがやっぱりね、
ほら、長く住んでると
アメリカのいい面も悪い面も見えてくる。
そうすると、子供をね、
アメリカ人にしたくないって考えるようになる。
競争の極限では、ほとんど泥棒と紙一重のようなこともある。
例えば研究者間でのアイディアの盗用とか。
あとでね、裁判になって勝てれば
何でもいいって感じのところがある。
糸井 その辺リアリズムな感じしますね。
内田 食うか食われるかの競争になると
モラルみたいなものは
吹っ飛んじゃうわけですよね。
だからものすごい緊張関係。
極端に言うと周りにいる奴は
みんな敵っていう感じですよね。

組織の作り方もそうなってる。
必ずコンピートさせるように
上司は配置するし、
その上司もまたその上の上司が
コンピートさせるようにしてるし。
だからね、気が休まんないわけ。
最初に言ったけれども、
ホテルの部屋に1人でにおいといてあげるよね
っていうのが最大の慰安になるような国って
普通の日本人のメンタリティだと嫌じゃない?
嫌じゃない?って言ったらおかしいけど。
そこで、やっぱりオランダの方がよかった
ということになるわけ。
親子べったりでね、
家に遊びにいらっしゃいよとか言われて。
糸井 おそらく内田さんが
今おっしゃったことっていうのが、
それそのものが、僕は見えない法律というか、
イデオロギーだと思うんですよ。
だから、嫌じゃない、
っていう一言だと思うんですよ。
敢えて言えば。
内田 そうなんですね。

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